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2015年2月25日水曜日

証拠史料編 ◉ その2

【「証拠史料」編―工藤夫妻の示す「証拠」史料を検証する】

引用の切り取り方で
正反対に誤読させる

………… 要点 ………………………………………………………………

  • 肝心な部分の手前で引用を止め、原文を誤読させることで「朝鮮人暴動」証言に仕立てる
  • 原文は朝鮮人暴動の記録ではなく、自警団の暴力の目撃記録である

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工藤夫妻による引用(『なかった』p.43)
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「(2日朝)岡検事、内田検事は東京から通勤して居たので東京も不安だとの話を聞いてから自宅を心配し初めた。私も早く東京との連絡を執らうと欲つて居たので若し出来ることなら両検事と一緒に上京し司法省及東京控訴院に報告しやうと思ひ、事務長に向ひランチの便あらば税関附近に上陸し裁判所の焼跡を見て司法省に報告したい、と話したが事務長は『陸上は危険ですから御上陸なさることは出来ない』といふ。何故危険かと問へば『鮮人の暴動です。昨夜来鮮人が暴動を起し市内各所に出没して強盗、強姦、殺人等をやって居る。殊に裁判所附近は最も危険で鮮人は小路に隠れてピストルを以て通行人を狙撃して居るとのことである。若し御疑あるならば現場を実見した巡査を御紹介しましやう』といふ」
(『横浜地方裁判所震災略記』パリー丸船内、部長判事長岡熊雄)
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これも、「その1」に引き続いて朝鮮人暴動の「目撃証言」として示されているものだ。

『横浜地方裁判所震災略記』は、震災から12年後の1935年の刊行。横浜地裁の関係者の震災手記を集めた本である。しかし、工藤夫妻はそこから直接引用したのではなく、この本からいくつかの手記を抜き出して収録した『現代史資料6』から孫引きしたのだと思われる。いずれにしろ、震災直後の新聞記事ではなく、世の中が落ち着いて以降に本人が自分の経験を書いたものであり、証言者の身元がはっきりしている。しかも判事であることなどを考え合わせても、その内容はかなり信用できるものだと言える。

震災時、横浜地方裁判所は完全に倒壊してしまった。圧死を免れた法曹関係者は横浜港に停泊する船に避難した。上の手記を書いた長岡判事は、大阪商船のパリー丸に避難していた。さて、工藤夫妻の引用で「朝鮮人暴動」にかかわって重要なのは、パリー丸の事務長の説明だ。事務長は、陸上では今、朝鮮人が暴動を起こし、各地で強盗、強姦、殺人などをやっていると言う。そしてそれを実際に見たという巡査もパリー丸に乗り合わせているというのである。工藤夫妻は、この事務長の説明の下りで引用を止めている。

きちんと読めば、この時点では暴動の「目撃証言」はまったく登場していないことが分かる。事務長は「現場を実見した巡査」から聞いた話をしているだけである。事務長の言うのが本当なら、巡査こそが暴動の目撃者であることになるが、この引用では、肝心の巡査本人は登場しない。だが、そういう人がいるらしいというだけで、暴動の話に信憑性があるように思えてくる。いや、そう思わせるのが工藤夫妻の狙いだろう。

ところが実は、その巡査は、工藤夫妻が引用を止めた直後にちゃんと登場し、発言しているのである。手記の続きを読んでみよう。

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私(長岡)は初めて鮮人の暴動を耳にし、異域無援の彼等は食料に窮し斯の如き兇暴を為すに至つたのだらうと考へ、事務長の紹介した県保安課の巡査(其名を記し置いたが何時か之を紛失した)に逢ひ其真偽を確めたところ、其巡査がいふには「昨日来、鮮人暴動の噂が市内に喧しく、昨夜私が長者町辺を通つたとき、中村町辺に銃声が聞こえました。警官は銃を持つて居ないから暴徒の所為に相違ないのです。噂に拠れば、鮮人は爆弾を携帯し、各所に放火し石油タンクを爆発させ、又井戸に毒を投げ婦女子を辱しむる等の暴行をして居るとのことです。今の処、御上陸は危険です」といふ。
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「鮮人暴動の噂」「相違ないので」「噂に拠れば」「とのことです」。なんのことはない。この巡査は結局、噂と思い込みを語っているにすぎなかったのである。唯一の「実見」は銃声だ。彼は「警官は銃を持つて居ないから(朝鮮人)暴徒の所為に相違ない」という。だが実際はどうだったろうか。実はこれもまた全く証拠とはならない。横浜では、自警団が銃を携帯していたことは、こちらの神奈川県警察部幹部の記録にも出てくる【→リンク】。1927年に横浜市がまとめた「横浜市震災誌」第5冊p.427に掲載されている西河春海(朝日新聞記者)の手記「遭難と其前後」には、猟銃を撃つ自警団の男の話が出てくる(同p.424~427。「横浜市震災誌」は横浜市教育委員会のHPで全て読むことができる【→リンク】)つまり、銃声=朝鮮人、という等式はまったく成立しないのである。この巡査の発言の中に「朝鮮人暴動」の証拠を見出すことはできない。

工藤夫妻は当然、『現代史資料6』で上の巡査の発言部分を含めて読んでいる。読んだ上で、巡査の発言の手前で引用を止めているのである。引用すれば、「鮮人の暴動を実見した」という巡査が実は何も「実見」していないことが明らかになってしまうからだろう。これは、控え目に言っても、誠実とは言えないやり方である。

実は、工藤夫妻の引用部分は長岡判事の手記のごく一部にすぎない。『現代史資料6』は長岡判事の手記の全文を掲載してはいないのだが、『現代史資料6』に引用された部分だけでも、長岡判事がその後、横浜で見たものを知ることができる。

巡査の話を聞いた長岡氏は翌日、それでも下船する。徒歩で東京・品川まで向かうのだが、上陸した横浜、そして品川で、流言による混乱と自警団の横暴を目撃する。

長岡氏は、伊勢崎町で人々が「人毎に棒を持つて居る」のを見る。彼は朝鮮人と区別するために赤布を巻くように言われたかと思うと、別の地域では「赤布は既に鮮人の覚る所となつたから本日から白布に代へることになった」と言われて白布に変えるように求められたりする。「警察部長から鮮人と見れば殺害しても差支ないといふ通達が出て居ると誠しやかに説明する」人にも出会う。「其半分以上は伝聞の架空事に相違ないが、如何にも誠しやかに話すので聞く人は皆真実の事のやうに思つて居る」。

子安町に着くと、至るところで人々が武装している。「壮丁が夥しく抜刀又は竹槍を携へて往来し居る、鮮人警戒の為だといふ。元亀天正の乱世時代を再現した有様だ、其壮丁の一人が私の腕に巻ける白布を見て横浜では本日から白布に代わりましたかと問ふ」「壮丁の一人は抜刀を突き付けて之を誰何す、車上の男は恐縮頓首恭しく住所氏名を告げて通過を許された。壮丁の多くは車夫鳶職等の思慮なき輩で兇器を揮て人を威嚇するのを面白がつて居る厄介な痴漢である。加之(これにくわえて)之を統率する者がないので一人が騒げば他は之に雷同する有様で通行人は実に危険至極である」。

続いてこんな記述もある。「道にて鮮人の夫婦らしき顔をして居る者が五六人の壮丁の為詰問せられ懐中を検査せられて居るのを見た」「生麦から鶴見にいく、此辺の壮丁も抜刀又は竹槍を携へて往来して居る。路傍に惨殺された死体五六を見た。余り残酷なる殺害方法なので筆にするのも嫌だ」。この遺体は、「殺害しても差支ない」とされた朝鮮人、あるいは朝鮮人「らしき顔」をしていた人のものだろう。

長岡氏は夕方、品川の両親の家にたどり着く。品川では、彼自身が朝鮮人と疑われ、竹槍をもった自警団に尾行される。家に着くと、年老いた父から、彼も自警団に棒で尻をたたかれたと聞かされる。

以上が、長岡氏の手記に記録された、93日の横浜、品川の状況だ。このどこに、朝鮮人暴動の目撃記録があるのだろうか。そこに記録されているのはむしろ、流言による混乱と自警団の暴力である。繰り返しになるが、工藤夫妻はこれを読んでいるはずなのである。

『現代史資料6』には、長岡氏の手記のほかにも、12編の手記が『横浜地方裁判所震災略記』から転載されている。その中には、もっとはっきりとした朝鮮人虐殺の目撃証言も残されている。最後にそれらを部分的に抜粋して紹介しておこう。

「道路における鮮人の死体、多数が鮮人を拉して行く様を見ては可愛相と思ひ…」(伊藤祐一判事)。
「(横浜)駅の右方がガードを越えし処にて黒山の如き群集あり何ときけば××××を銃剣にて刺殺しつつあるなり頭部と云はず、滅多切にして溝中になげこむ惨虐目もあてられず、殺気満々たる気分の中にありておそろしきとも覚えず二人まで見たれ共おもひ返して神奈川へいそぐ」(故横浜地裁福鎌検事正代理夫人・福鎌恒子)。
「焼死者にあらず血みぞれの生々しき死者数人あり、聞けば○○なり」(巻よね子)。

すでに繰り返してきたように、横浜市に “朝鮮人暴徒” がいなかったことは、神奈川警備隊の指揮官である奥平俊蔵中将や安河内麻吉神奈川県知事なども認めているところである。“朝鮮人暴徒”の目撃証言も残っていない。一方、横浜における虐殺の目撃証言は多数に上っている。それを覆す内容は、長岡判事の手記には含まれていない。むしろ、自警団の暴力が記録されているものだ。それにもかかわらず、工藤夫妻は、原文を不誠実に切り取ることによって、彼の手記を“朝鮮人暴動の証言”に仕立ててしまったのである。