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2015年2月12日木曜日

証拠史料編 ◉ その14

【「証拠史料」編―工藤夫妻の示す「証拠」史料を検証する】

拷問による
「自白」が暴動の証拠?

………… 要点 ………………………………………………………………

  • 震災直後の談話記事
  • 拷問による「自白」を証拠として提示

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工藤夫妻による引用(『なかった』p.337)
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「私は本所の家に帰る途中、道成橋で多数の人が鮮人を捕らへて居るのを見ました。其人達は盛んに鮮人を竹槍で責めて訊問して居ましたが其鮮人は苦しさに堪へず到頭自白しました。其話に依ると鮮人達は東宮殿下御成婚式の当日に一斉に暴動を起す事を牒合して爆弾等をひそかに用意して居たが此震災で一斉に活動したのだと云ふ。又二日には之に関する協議会さへ聞く予定があつたと云ふ。彼等には又誰か後押はあるらしい風であつたが死ぬ程責めても到頭吐かなかつた」
(青木繁太郎談、『北海タイムス』大正十二年九月七日)

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これもまた、『現代史資料6』(p.175)に収められている記事である。そして、避難者の談話をまとめた震災直後の混乱期の記事である。この時期の新聞の信用性の低さについてはすでに述べてきた(当サイト「虐殺否定論の嘘その4 震災直後の新聞のデタラメ」 )。

『なかった』の中で、上の記事は、朝鮮人テロリストが「自白した例」として取り上げられているものだ。ほかに2つの記事が取り上げられている(「証拠史料」その14、15、16 下図参照)。これらをまとめて、「やはり標的は御成婚式だった」という見出しがつけられている(p.336)。つまり工藤夫妻は、記事の中に出てくる「朝鮮人の自白」内容を事実として、論を進めているのである。



さて、この記事で青木氏が目撃したこととして書かれている要素は、①道成橋で多数の人が朝鮮人を捕らえていた、②彼らは朝鮮人を竹槍で責め立てて尋問していた、③朝鮮人は苦しさに耐えきれず、暴動計画を白状した―の三つだ。

工藤氏は、朝鮮人が暴動計画を自白した例は「枚挙にいとまがない」と書いている。それはやや大げさとしても、確かにそうした記事は多く残っている。決まって、朝鮮人を拷問したところそのように白状したという内容だ。

先述したように、この記事も震災直後の混乱期の記事である。避難者である青木氏の話をまとめた記者が、青木氏の目撃と伝聞をどれほど腑分けして聞き取り、記事にまとめているか、心もとない感じを受け取る。もちろん裏なんかとってないだろう。

仮に朝鮮人がこのような「自白」を行ったのが事実だとして、ふつうに考えて、竹槍で「死ぬ程責め」られて認めた内容を信用できるだろうか。もし、これを読んでいるあなたが、竹槍(叩くものではなく、刺すものである)で「死ぬ程」責め立てられ、「お前は暴動に向けて爆弾を用意していたのだろう、白状しろ」と拷問されたとして、どこまで「違う」と言い続けることができるだろうか。

警視庁の関東大震災時の総括『大正大震火災誌』は、震災直後にどのような流言があったかを記録している。そのなかには、朝鮮人が暴動を地震の前から準備していたという流言も見ることができる。「鮮人等は予てより、或る機会に乗じて、暴動を起こすの計画ありしが、震火災の突発に鑑み、予定の行動を変じ、夙に其用意せる爆弾及び劇毒薬を流用して、帝都の全滅を期せんとす」という流言を警視庁が確認したのは9月2日午後6時ごろだという。工藤夫妻が引用する記事に出てくる朝鮮人の「自白」と同様の内容である。念のため言っておくが、警視庁はこれを「事実」や「事実かもしれない情報」として掲載しているのではなく、事実ではない「流言」として記録しているのである。

警視庁『大正大震火災誌』は「国立国会図書館デジタルコレクション」で閲覧できる。

すでに当サイト「虐殺否定論の嘘 その2」で指摘してきたように、「不逞計画」の存在を否定した司法省を筆頭に、多くの公式記録や要人の証言で朝鮮人による組織的なテロの存在は否定されている。実際、震災直後の記事以外に組織的テロを目撃したという証言が存在しないことを考え合わせれば、仮に記事中の「自白」が事実だとしても、自白内容を事実だと考えることは難しい。そして、そうした常識的判断をゆるがせるような内容は、この記事には含まれていない。

そもそも、この朝鮮人が暴動を「自白」したのが事実だとして、彼はその後、どうなったのだろうか。警察に連行されたのだろうか。警察署でも同じ話をしたのであれば、なぜその記録が残っていないのだろうか。警察に連行され、その後、命をとりとめたのであればまだいいが、竹槍で死ぬほど責められた彼は、生きて道成橋を離れることはなかったのかもしれない。ここに描かれている光景は、そういうものなのである。これを「朝鮮人が暴動を自白した記録」として扱う者の感性は、私たちには理解を絶する。

ところで、工藤夫妻も目を通したはずの『現代史資料6』の該当ページ(p.175)を見ると、同じ9月7日付の北海タイムスからの引用として、上のものの他に3つの記事が並べられている。それらの中には、朝鮮人迫害の状況を描写しているように思われる内容が多く含まれている。以下、いくつか挙げておく。「爆弾投下」などの記述は伝聞の常としてあいまいでぼんやりしているのに対して、朝鮮人迫害の描写は生々しく具体的だ。


「鮮人投弾事実/阿由葉原三郎氏令息重治君談 

自分は震災当日上野広小路の一旅館に行李を解いてゐた。鮮人の爆弾投下は事実で、私も爆弾所有の鮮人が捕へられて殺されるのを二三回目撃しました。市民の不逞鮮人に対する反感は非常なものです。帝大の焼失も鮮人の投弾ださうです」

「不逞鮮人射殺さる/荒川堤で二百名/芝浦製作所勤務鶴巻三郎談

第一回の強震と共に硝子戸が一枚落ち頭部を酷くやられました。鮮人との争闘は烈しく行はれ、荒川堤では二百人からの鮮人が射殺されました。唯私は四日東京を出ましたが其頃は大部分の鮮人が郡部の方に逃げて居ました。宇都宮までは厳重に汽車の警戒行はれ引降され直殺されて了ひました。負傷者は何とも手の附けやうなく其儘放擲されて居る有様である(略)」


「不逞鮮人を金棒で撲殺す/日本人を脅迫したので/やつつけたと函館で語る/米国大使館勤務小野東邦館山太郎談
赤羽を出る時私の乗つて居た車の中に朝鮮人が隠れて居たのが発見され引摺り出したが反抗したので青年団や在郷軍人が取巻いて附近に在つた電柱の針金を以て手を縛しホームへ放つて殆ど息が絶える位蹴つて居ました。

館山君が続いて語る。「私は何うして通つたのか下谷竜泉寺の処に多数の避難民が群衆してゐる処に着きましたら其処に居る老人から金棒を渡され其夜其処の女子供の警戒を水も飲ますことに(ママ)なりました。ヘトヘトになりながらも警戒して居りますと三日の昼頃でした。労働服に半纏を着た鮮人が日本人を脅迫して居るのを見付けたので警戒の任に在る私は金棒でブン撲つたら血がはねるやら遠くから石を持つて打殺して仕舞ひました。其鮮人は金を二十五円許り持つて居りました。田端へ出たのが四日の午後二時頃で開通した許りの第二の列車で参つた次第ですが、三越や松坂屋が焼けたのは爆弾の為だと途中で聞きました。鮮人と見れば何でもかんでも殺してしまはねばならんやうに思ひ込まれて今其時の事を考へて何うしてあんな事を譴つたのかゾツとします。此金棒は某鮮人を殺したのです」と。
(それぞれ北海タイムス1923年9月7日付記事。『現代史資料6』から重引。当サイトで句読点を入れた)