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2015年2月14日土曜日

証拠史料編 ◉ その12

【「証拠史料」編―工藤夫妻の示す「証拠」史料を検証する】

朝鮮人30人の乱入に
30万人の日本人が阿鼻叫喚?

………… 要点 ………………………………………………………………

  • 30万人の避難者でぎっしりだった二重橋広場に30人の朝鮮人が乱入して避難民を脅すという、あまりにも現実離れした記述。 
  • 記事に登場する正力松太郎(警視庁官房主事)自身が「朝鮮人来襲は虚報だった」と回想している。 
  • 「朝鮮人二百名が抜刀して進撃」は警視庁の流言事例に頻出するお決まりの内容。

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工藤夫妻による引用(『なかった』p.171)
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「不逗鮮人各所に放火し
帝都に戒厳令を布く

一日正午の大ヂシンに伴ふ火災は帝都の各所より一斉に起り、二日夕刻までに焼失倒壊家屋十万に上り死傷算なく、同時に横浜横須賀等同様の災禍に会ひ、相州鎌倉小田原町は全滅の惨を現出した。陸軍にては昨深更災害の防止すべからざるを見るや出動の軍隊に命じて焼くべき運命の建物の爆破を行はしめた。この災害の為め帝都重要の機関建築物等大半烏有(注・何もないこと)に帰し、ヒナン民は隊を組で黒煙たちこむる市内を右往左往して飢に瀕し、市民の食糧不安について鉄道省は各地を購入方を電命し、府市当局は市内各所に炊き出しをなし、三菱地所部も丸の内で避難民のために炊き出しを行つた。

一方猛火は依然として止まず(略)、当市内朝鮮人、主義者等の放火及宣伝当頻々としてあり、二日夕刻より遂に戒厳令をしきこれが検挙に努めてゐる。因に二日未明より同日午後にわたり各署で極力捜査の結果、午後四時までに本郷富坂町署で六名、麹町署で一名、牛込区管内で十名計十七名の現行犯を検挙したがいづれも不遅鮮人である」
(「東京日日新聞」大正十二年九月三日)

「鮮人いたる所めつたぎりを働く
二百名抜刀して集合警官隊と衝突す

今回の凶変を見たる不平鮮人の一味はヒナンせる到る所の空屋等にあたるを幸ひ放火してをることが判り、各署では二日朝来警戒を厳にせる折から、午後に至り市外淀橋のガスタンクに放火せんとする一団あるを見つけ辛ふじて追ひ散らしてその一二を逮捕したが、この外放火の現場を見つけ取り押へ又は追ひ散らしたもの数知れず、政府当局でも急に二日午後六時を以て戒厳令をくだし、同時に二百名の鮮人抜刀して目黒競馬場に集合せんとして警官隊と衝突し双方数十名の負傷者を出したとの飛報警視庁に達し、正力主事、山田高等普通課長以下三十名現場に急行し、一方軍隊側の応援を求めた。尚ほ一方警視庁本部備へつけの鉄道省用自動車を破砕すべく爆弾を以て近寄つた一団二十名を逮捕したが逃走したもの数知れず」
(「東京日日新聞」大正十二年九月三日)

「鬼気全市に漲(みなぎ)る

不平鮮人団はいづれも帽子をまふかにかふつてゐるので、普通の男子はすべて帽子をぬぎ、左手に白布をまとふことゝし、若しウサンな男と出あつた際はまづ生国を問ひ答へのにごるものは追究し、ソレと窮する時は直ちにこぶしの雨を降らす有様で殺気は次第に宮城前広場、日比谷公園より丸の内一帯、同日午後九時頃鮮人の一団三十余名ヒナン民を以て充満した二重橋の広場に切りこんだとの報に接し江口日比谷署長は部下を率ゐ警戒に任じ、十時半頃に至りその一味を発見すると彼等は日比谷公園ににげこみ、十数名の一団は時の声を挙げて此処にヒナンしてゐる老幼男女を脅かし各所に悲鳴起り(略)目下警戒に主力を注いでゐるのは渋谷地方で鮮人等はこの方面がやけ残つてゐるので放火をしやうとたくらんでゐる」
(「東京日日新聞」大正十二年九月三日)

日本人男女十数名をころす

目黒競馬場をさして抜刀の儘(まま)集合せんとし不平鮮人の一団は、横浜方面から集まつたものらしく、途中出会せし日本人男女十数名を斬殺し後憲兵警察隊と衝突し三々伍々となりすがた影を隠したが、彼等は世田ヶ谷を本部として連絡をとつてをると」
(「東京日日新聞」大正十二年九月三日)

横浜を荒し本社を襲ふ
鮮人のため東京はのろひの世界

横浜方面の不逞鮮人等は京浜聞の線路に向て鶴嘴(つるはし)を以て線路をぶちこはした。一日夜火災中の強盗強姦犯人はすべて鮮人の所為であつた。二日夜やけ残つた山の手及び郊外は鮮人のくひとめに全力をあげられた」
(「東京日日新聞」大正十二年九月三日)

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この5つの記事をまとめてここで示したのは、もともとこれらは、東京日日新聞9月3日付の1面に掲載された、ひと連なりの記事だからである。『なかった』では、小見出しで分かれているものを5つの記事として扱っているのである。

また、一つ目の(略)で略されている部分が、すでにp.152で引用されている文章であることについては、すでに「『証拠史料編』その8」で述べた。

さて、確かに迫力と緊張に満ちた記事であるが、このなかに出てくる朝鮮人暴動関連の情報を整理すると以下のようになる。

①富坂署や麹町署などで放火の現行犯として朝鮮人を逮捕

②朝鮮人集団が淀橋のガスタンクに放火しようとして1~2人を逮捕

③200人の朝鮮人が抜刀して目黒競馬場に集合しようとして警官隊と衝突。双方数十人の負傷者。警視庁の正力松太郎官房主事らが現場へ急行。

④警視庁本部の自動車を爆破すべく近寄った20人を逮捕。

⑤二重橋広場、日比谷公園の避難民中に30人の朝鮮人が乱入し老若男女を脅している。

①についてはすでに「『証拠史料編』その8」で触れている。刑事たちが取り調べた結果、彼らが放火を行ったと認めることはできなかったことはすでに書いた。

②の逮捕については『大正震災火災誌』の淀橋警察署の報告にもないが、放火の流言が管内で盛んに起ったことは記されている。淀橋のガスタンクが襲撃されているという流言があったことについてはいくつの証言が残っているが、実際に朝鮮人の襲撃を見たという証言は存在しない。もちろん、10月以降の新聞の続報もなし。タンクに放火されたら危険だという懸念がそうした流言をつくったと考えるのが自然だろう。

③については、200人の集団が抜刀して移動していれば目撃証言が残っていなければおかしいはずだが、そうした証言はひとつも残っていない。朝鮮人との衝突で警官側に負傷者が出たという記録もない。そもそも、正力が現場に急行したという記事を何かの「証拠」として取り扱うのであれば、彼が現場の検証を踏まえてどのような結論を下したのかまでを含めて見なくてはいけないだろう。現場に急行した結果、正力は最終的にどのような結論を下しただろうか。「朝鮮人来襲は虚報だった」正力松太郎「米騒動や大震災の思い出」読売新聞社である。後から見れば、この記事は、正力が、暴動が虚報にすぎないという理解に到達する少し前の動きを記録したものと言える。

ちなみに「朝鮮人暴徒200人が〇〇で戦闘中」という流言は各地で発生している。警視庁『大正大震火災誌』(1925年)の流言蜚語の項目には「鮮人約二百名、品川署管内仙台坂に襲来し、白刃を翳(かざ)して掠奪を行ひ自警団と闘争中なり」「鮮人約二百名、中野署管内雑色方面より代々幡に進撃中なり」「鮮人約二百名、本所向島方面より大日本紡績株式会社及び墨田駅を襲撃せり」といった流言があったことが記録されている。もちろん、誰一人その200人を「この目で」見たという者はいない。上の引用記事中には、朝鮮人テロリストが「世田ヶ谷を本部として連絡をとつてをる」との記述もあるが、東京府『東京震災録』の世田谷署報告にも、吉河光貞『関東大震災の治安回顧』(法務府審査局)に収められている世田谷署長の報告にも、当然ながらそれを思わせる記述はない。もちろん、世田谷の住民の証言もない。

④については、警視庁本庁で取り調べた168人の朝鮮人のなかに、犯罪を行なった者を見つけることがほとんどできなかったことを、「『証拠史料編』その8」ですでに指摘した。従って、警視庁本庁の自動車に近づいて20人が逮捕されたこと自体が、仮に百歩譲って事実だったとしても、取り調べてみた結果、彼らに犯罪事実を認めることはできなかったということになる。

⑤について言えば、上野公園や二重橋広場は避難民であふれかえっていた。当時の赤池濃警視総監は「宮城前に集まれるもの無慮三十万人である、又上野、芝、靖国神社境内に集まれるもの五万乃至十万である」と書き残している(1923年11月「大震災当時に於ける所感」『現代史資料6』)日比谷公園もまた、万単位の避難民であふれかえっていたと思われる。数万~30万人がひしめき合う広場に、30人の朝鮮人が乱入して、老若男女が悲鳴を挙げて怯えたという描写はあまりに現実離れしている。日本人どんだけ弱いんだよという話である。

警視庁『大正大震火災誌』の神田錦町署の報告には以下のようにある。
「九月二日午後六時、警視庁に応援の為、本署員の日比谷公園に出動するや、鮮人暴動の流言しきりに行はれ、避難者はいずれも之に惑ひて危惧の念を生ずるに至れり、即ち依命(命令によって)鮮人の収容と検束とに努力せし」
先の記事では、朝鮮人が乱入したのは夜9時とある。この記事に描かれているのは、闇に包まれた広大な公園にひしめき合う群衆の間に幻想的な流言が飛び交うさまであろう。避難民があふれかえった公園や河川敷はどこでも、朝鮮人暴動の流言が盛んに行なわれ、混乱していたという証言が多く残っている。

ちなみに工藤夫妻の引用中の、二つ目の(略)で略された文章中に、「相いましむる声と思ふ呼笛の声鳴り響きおどろくべき呪ひの世界を現出した。東京駅前の大通で執務してゐる本社出張所附近に怪しき影の出没さへ見え社員は極度に緊張殺気立った」という一節がある。「横浜を荒し本社を襲ふ/鮮人のため東京はのろひの世界」という見出しはここから来ているのだが、この文章からは、遠くから声や笛の音が聞こえてきたことと、会社の近くに怪しい人影があったという事実しか読み取れない。新聞記者でさえ、たったそれだけのことで動転したらしい。暗闇のなかの集団ヒステリーじみた状況が目に浮かぶようである。

まとめると、工藤夫妻が引用している上の記事が伝える朝鮮人のガスタンク放火、抜刀襲撃、避難民襲撃は、そのどれも、後になって行政記録や正力松太郎ら要人の回想によって事実性が否定されているか、全く続報や証言がないかのどちらかであるということになる。

9月2日から3日にかけての時点では、警察もメディアも朝鮮人暴動の流言を事実だと考えていた。ところが暴徒がいつまで待っても現れず、朝鮮人を捕まえて取り調べても犯罪事実が全く出てこないので、しばらくする頃には、行政機関も人々も朝鮮人暴動を信じなくなる。上の引用記事は、流言の真相が判明する前、人々が暴動流言をまだ信じていた時期に、これを信じた記者によって書かれたものにすぎない。

工藤夫妻が、それでも、震災直後の記事こそが事実を伝えているのだと強弁したいのであれば、世の中が落ち着いて、正確な情報が共有されて以降の行政の記録や要人の回想が「朝鮮人暴動」を流言として扱っていることに対する反証となりうるものを提出する必要がある。だが上の記事引用に当って、そうした疑問に対して工藤夫妻が行った反証は、“9月2日の時点で警察やメディアが嘘をつくはずがない”というトンチンカンなものだけである。震災直後の警察や新聞は、何も嘘をついていたのではなく、流言を真に受けていたのである。

工藤夫妻の“反証”は、完全に明後日の方向に向けられている。