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2015年2月16日月曜日

証拠史料編 ◉ その10

【「証拠史料」編―工藤夫妻の示す「証拠」史料を検証する】

爆発音がすれば爆弾、
爆弾なら朝鮮人?

………… 要点 ………………………………………………………………

  • 震災直後の地方紙記事で“伝聞込み” の談話。 
  • 警視庁がまとめている流言と内容が酷似。
  • 火災に伴う爆発音を根拠なく爆弾の音と断定。 
  • 拷問による自白内容を事実と考えるのは無理。

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工藤夫妻による引用(『なかった』p.155)
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「去る一日正午最初の強震で住民は一斉に電車通りとか鉄工場の空地へ避難した。【A】最初の強震あつて約三十分も経つたと思ふ頃、銀座尾張町と芝口の二ケ所の出火あり黒煙濠々として物凄く、消防隊が駆けつけたけれど水の便がないので火勢は、刻々猛烈となつて行くばかり。(略)夕景に至つて恰(あたか)も暴風の状態となり、本所深川方面は火の海と化した。その頃までも住民等は異口同音に川を隔ててゐるから月島だけは大丈夫と多寡をくくつて逃仕度もせず、飛来せる火の手を消したりなどして対岸の火事見物をしてゐたところが火足は頗(すこぶ)る迅速に、ソレ商船学校が燃え出した、ソレ糧秣廠だといふ塩梅(あんばい)に猛火はだんだんと月島の方向さして襲つて来る」(『河北新報』大正十二年九月六日)
「この土管の中に約三万人の月島住民は避難してゐた。勿論着のみ着のままで……辺りには火薬庫がある。これが万一破裂しようものなら生命はこれまでだと生きた心地もなく恟々として潜んでゐた。(略)これより先、越中島の糧秣廠にはその空地を目当てに本所深川辺りから避難してきた罹災民約三千人が雲集してゐたところが、その入口の方向に当つて異様の爆音が連続したと思ふと間もなく糧秣廠は火焔に包まれた。そして爆弾は所々で炸裂する。三千人の避難者は逃場を失なつて阿鼻叫喚する。遂に生きながら焦熱地獄の修羅場を演出して、一人残らず焼死して仕舞つた。【B】月島住人は前記の如く土管内に避難し幸ひに火薬庫の破裂も免れたため死傷者は割合少なかつた。それだけこの三千人を丸焼きにした実見者が多かつた」(前掲紙)
「而(しか)も鮮人の仕業であることが早くも悟られた。そして仕事師連中とか在郷軍人団とか青年団とかいふ側において不逞鮮人の物色捜査に着手した。やがて爆弾を携帯せる鮮人を引捕へた。恐らく首魁者の一人であろうといふので厳重に詰問した挙句遂に彼は次の如く白状した。『われわれは今年の或時期に大官連が集合するからこれを狙つて爆弾を投下し、次で全市到るところで爆弾を投下し炸裂せしめ全部全滅鏖殺(注・皆殺しの意)を謀らみ、また一方二百十日の厄日には必らずや暴風雨襲来すべければその機に乗じて一旗挙げる陰謀を廻らし機の到来を待ち構えていた(略)』 
風向きと反対の方面に火の手が上つたり意外の所から燃え出したりパチパチ異様の音がしたりしたのは正に彼等鮮人が爆弾を投下したためであつた事が判然したので恨みは骨髄に徹し評議忽ち一決してこの鮮人の首は直に一刀の下に刎(は)ね飛ばされた」(前掲紙)
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これもまた、『現代史資料6』に収録されている記事である。そして震災直後に地方紙に掲載された避難民の談話記事である。例によってこの引用中にも、【A】【B】の2箇所で(略)と示さない省略を行っているが、略されている内容は「火の手は八方から上がり」とか「惨憺たる光景」といった火事の様子の描写だけなので、ここではいちいち取り上げない。

記事が伝えているのは、要するにこういうことだ。

9月1日午後、火災はすごい勢いで広がっていた。月島に逃げた避難民たちは、対岸の越中島にある糧秣廠(陸軍の食糧補給関連施設)に猛火が迫っていくのを眺めている。そのうちに爆発音が連続したかと思うと、糧秣廠は火に包まれた。「そして爆弾は所々で炸裂する」。糧秣廠に避難していた3000人は「一人残らず焼死して仕舞つた」。月島の避難民たちは、これが「鮮人の仕業」であることを悟る(なぜそう考えたのかは全く説明がない)。「不逞鮮人」を「物色」していた青年団は、やがて爆弾を携帯した朝鮮人を捕まえる。「厳重に詰問」すると、朝鮮人は自白する。もともと爆弾投下による東京全市皆殺し作戦を準備していたが、地震が起きたのでこれに乗じて決起したのだ―と。「風向きと反対の方面に火の手が上つたり意外の所から燃え出したりパチパチ異様の音がしたりしたのは正に彼等鮮人が爆弾を投下したためであつた」ことが分かったので、人々はすぐにこの朝鮮人の首をはねたのである。

一読して疑問がいくつも湧いて来ないだろうか。なぜ爆発音が爆弾によるものと分かったのか。なぜそれを「鮮人の仕業」と考えたのか。自白内容も出来すぎてないか。爆弾投下による全市皆殺しとは余りにも壮大すぎる計画ではないか。猛烈な勢いで火災域が拡大しているさなかに、「ソレ糧秣廠だといふ塩梅」とあるように、放っておいても延焼しつつある糧秣廠に、わざわざ貴重な爆弾を投げ込むのは無駄というものではないか。

ところが工藤夫妻はこの談話者の説明を何の疑いもなく事実と考えているようで、「大災害のさ中に計画的なテロ行為をもつて大量殺人」が行なわれたのだ、と引用の後で断定している。

この記事は、匿名の罹災者から聞いた話を河北新報の記者がまとめたものである。『現代史資料6』では見出しも掲載されている。「土管で生きた三万人/鮮人の恐るべき自白/逃れて来た罹災者の話」。記事の最後はこう結ばれている。「吾々は土管生活四日間本日市から渡船の便を開いてくれたのでやつと避難してきた次第である」。

こうした避難民の談話記事は、震災直後の新聞ではよく見かけるものだ。だが、その内容の信憑性は低いと言わざるを得ない。なぜか。第一に、混乱のさなか、誰も実際の状況全体を把握できていない時期の避難者の状況認識だからだ。第二に、談話者が「実際に見たこと」と、「誰かから聞いたこと」が混在しているからであり、第三にそのうえ、取材している記者の側も裏をとることもなく、そのまま記事にしているからだ。第四に記者が避難民の言うことを正確に書き取っているとも限らない。震災直後の新聞記事に虚報・誤報が多いのは、このような事情に由来する。避難民からの聞き取りだけで書かれたものが多いからである。

そしてこの記事も、この匿名の談話者が「この目で」見たことを話しているというよりは、伝聞を総合して、月島の避難民の「状況認識」を語っているようである。

仮にこの記事中にあるように、捕らえられた朝鮮人がこのように自白したことが事実だとしても、「厳重に詰問」された挙句に首を切られる直前に語ったという内容を普通、額面どおりに信じないだろう。だがそもそも、このように自白したということ自体が事実であるかどうか怪しい。

警視庁の震災総括『大正大震火災誌』(1925年刊行)は、「流言の発展」という項を立てて、震災時の流言を時間軸で整理することで、それが「単純なる内容」から「曲折変化を重ね、或は又新しき流言浮説の創製」へと発展していったことを指摘している。実際、『大正大震火災誌』に掲載されている、確認された時系列でまとめられた流言の数々を見ると、その通りになっている。そして2日午後6時に確認された流言として、上の引用に合致するものが記録されている。
「鮮人等は予てより、或る機会に乗じて、暴動を起すの計画ありしが、震火災の突発に鑑み、予定の行動を変じ、夙に其用意せる爆弾及び劇毒薬を流用して、帝都の全滅を期せんとす、井水を飲み、菓子を食するは危険なり」 
同様の内容の流言は、当時のほかの資料でもよく見かける。

また、工藤夫妻は「爆弾は所々で炸裂する」という証言者の決め付けを、「もとより糧秣廠とは馬のまぐさを収納するだけの簡素な倉庫である。爆弾などが置いてあるはずもない」「そこへ爆発物の音が連続して聞こえ、火の海となったのは尋常ではない」と肯定している。糧秣廠なのに爆発音がするわけない、だからやっぱり爆弾だというわけだ。

だが、震災時の火災の拡大に際して耳にした爆発音を、工藤夫妻のようにそのまま爆弾の音だと早合点しなかった人も大勢いる。例えばこちらである。
「(浅草の寺がいくつも焼けるのを)悲しくなつて見ている中に、浅草の各興行物の家屋もどんどん焼けて、時にボーンボーンと大きな爆弾を投げたやうな音がきこえる。瓦斯管とか、建築用材中の鉄管とかいふものが熱のために中の空気が膨張して爆発するのだらうと思つたが、この音が後に朝鮮人が爆弾を投げ込んだといひふらされた音である。若し真実さう思つてゐる人が多いならば、朝鮮人は余程迷惑を蒙ることであらう。竈(かまど)の中に竹を一本入れて燃してもかなり酷い音がする。種々の設備のしてある家屋の焼ける時には、この位の音はいろいろの物から発するものであらう」(来馬琢道『一仏教徒の体験せせる関東大震火災』鴻盟社、1925年) 
来馬は浅草萬隆寺の山主である。彼のような認識のほうが、爆発音を短絡的に爆弾の音と決め付けるよりも説得力があり、常識にかなっているように思われる。そもそも糧秣廠が放火されたとか、放火とまではいかなくても出火点になったという記録はない。工藤夫妻が引用する本稿冒頭の記事を丁寧に読めば見えてくるように、他から延焼してきた火に包まれたのだと考えるのが自然だろう。糧秣廠の爆発音も、その延焼の過程でガス管などが爆発したものだと考えるのが妥当だ。そこらの馬小屋ではなく、陸軍施設なのだから、その程度の施設はあるだろう。ついでに言えば、糧秣廠に避難した3000人が一人残らず焼け死んだという記録もない。

ところで工藤夫妻の引用は「この鮮人の首は直に一刀の下に刎ね飛ばされた」で終わっているが、実はその後も記事は続いている。
「かく捕らへられた鮮人二十四人は十三人一塊と十一人一塊りと二塊りにして針金で縛し上げ鳶口で撲り殺して海へ投げ込んでしまつた。けれどもまだ息のあるものもあつたので海中へ投入してから更に鳶口で頭を突き刺したが余り深く突き刺さつて幾人もの鳶口がなかなか抜けなかつた。また外に三人の鮮人は三号地にある石炭コークスの置場の石炭コークスが盛んに燃えている中に生きてゐるまま一緒に引き縛つて投げ込んで焼き殺してしまつた。実際惨酷らしいようだが、しかし、深川辺りでは井戸に毒を投入したため罹災者の子供が(略)握り飯を持つたままころころ死んで居つたり、毒入り飴を子供が食て死んでゐるのを見たりするのに較べるとまだ何でもない事である(略)」。
                               (略)は当サイトによる。 
生々しい描写である。きりがないのでこのくらいにしておくが、朝鮮人が巡査の帯剣を抜き取って背中からグサリとやって「幾十人」もの巡査を殺したなどといった話も出てくる。そのため、「鮮人を縛して海へ投じた時見てゐた巡査達は双手を挙げて万才を叫んだ程である」。

もちろん、朝鮮人が幾十人の巡査を殺したとか、毒入り井戸や毒入り飴などは明らかに事実ではない。この避難者の言葉にはやはり、見たことと聞いたこと、事実と流言が、幻想的に交じり合っているようだ。ただ、月島において、朝鮮人を生きたままコークスの中に投げ込んだり、海に投げ捨てたりしたという証言は、戦後の聞き取り証言にも出てきていることを指摘しておく。

さらに、この記事の引用の後で、工藤夫妻はこうまとめている。
「もちろん、現代の法秩序からいえばいくら爆弾投下を自供したからといって、その場で民間人の手で首をはねるという行為は許されない。/だが、大災害のさ中に計画的なテロ行為をもって大量殺人が行われれば、市民の怒りはもっともなことといえよう」「大前提として、まず朝鮮人がどんな主義主張があったにせよこの大震災に乗じて無事の市民多数を殺傷したこと、集団をもって市民を襲い、結果として尋常ならざる恐怖感を与えたゆえの結末であることを忘れてはならない」 
現代の法秩序どころか、当時の法秩序でも私人が勝手に誰かの首をはねたら重大な犯罪だ。大正時代は戦国時代ではない。だがそれよりも、このくだりで驚かされるのは、朝鮮人が「大震災に乗じて無事の市民多数を殺傷したこと」が、いつの間にか「大前提」になっていることである。工藤夫妻は『なかった』の冒頭で「何の罪もない者を殺害したとされる『朝鮮人虐殺』は果たして本当にあったのか」「あらゆる史料を再検討することで、歴史の真相に迫ってみたい」と、この本の目的を示していた。つまり、朝鮮人暴動が本当に流言なのかを検証したいということだ。その時点では、朝鮮人が「大震災に乗じて無事の市民多数を殺傷したこと」は「大前提」ではなく、検証すべき仮説だったはずだ。

ところが、内容の信憑性が低い震災直後の新聞記事を、虐殺研究の基礎文献『現代史資料6 関東大震災と朝鮮人』から引用して、「ここに書いてあることが事実だ」と検証なしに次から次へと並べ立てるうちに、いつの間にか「再検証」を済ませてしまったようだ。
繰り返しになるが最後にまとめておく。この記事を「朝鮮人暴動」の「目撃証言」や「証拠」と見るのは無理がある。

第一に、まともな取材が出来ない混乱期に避難民の談話をそのまま載せたものであり、信用度が低い。第二にその内容も、本人の「目撃」というよりは伝聞込みの「認識」を語ったものである。しかもその内容はかなり幻想的だ。第三に、爆発音なら爆弾、爆弾なら朝鮮人の仕業と即断するのは無理がある。第四に、自白の内容が、警視庁がまとめている流言とそっくりである。第五に、仮に自白そのものは事実だとしても拷問の結果得られた自白内容を事実とは見なせない。求められたことをその通りに答えるかもしれないからだ。第六に、糧秣廠が発火点になったとか、放火されたといった記録は残っていない。つまり、裏がまったくとれないのである。