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2015年2月21日土曜日

証拠史料編 ◉ その6

【「証拠史料」編―工藤夫妻の示す「証拠」史料を検証する】


市民が恐怖におののいていた以上、
朝鮮人襲来は真実??



………… 要点 ………………………………………………………………

  • 震災直後の談話記事であり、『現代史資料6』孫引き可能性が大。
  • 「証拠としてはやや弱い」が、市民が恐怖におののいていたのだから事実である……という意味不明の “論理” 。
  • 地元の下谷区役所は恐慌の原因を「仮想幻想的流言」によるものと総括している。

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工藤夫妻による引用(『なかった』p.145)

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「川口町の混雑は実に名状すべからざる有様で、避難民は大群を成して押し寄せてくる。川口町から徒歩で赤羽まで行くと此処にも避難民が一ぱいでとても通れない程だ。空腹を訴ふる子供や足を挫いた婦人、重傷と飢餓とに死にかかつてゐる男など救ひを求めてゐる。(略)やつと上野に着いて山に登つてみればまるで焼石の河原のやうだ。僅(わずか)に浅草の観音様や大建物の鉄筋のみが見えてゐる。青年団、軍人分会、自警団員等はいずれも刀鉄棒樫木棒を持つて警護に任じてゐる。なんでも地震後の火災は左程でもなかつたが、一日夜から不逞鮮人が随処に放火し、上野の如きも朝鮮婦人が石油をまきそれに鮮人が後から爆弾をなげた為めなさうで、罹災民の鮮人を憎むことは迚(とて)も想像以上である。この附近の人達は岩崎邸に避難したのであるが、邸内の井戸に毒薬を鮮人に投ぜられたので非常に困つて居る。それで、四日午前には万世橋で七人、午後には大塚で二十人、川口で三十人の不逞鮮人隊が捕縛され、その一部は銃殺されたといつてゐた」
(渋谷東北大学書記談『河北新報』大正十二年九月六日) 
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これも、『現代史資料6』に掲載されている記事である。

東北大学の書記による東京見聞記だ。鉄道は川口駅までしか復旧していなかったので、彼はそこから徒歩で東京に向かった。一読して分かるように、朝鮮人に関わる部分はすべて伝聞。工藤夫妻自身もそれは分かっているようで、この引用に続いて「この談話の主にしても朝鮮人が放火したのを自身の目で見たわけではない」「岩崎邸井戸への毒薬投入についても同様である。上野の町中の混乱状態のさなかに彼が耳で聞いたに過ぎないことは証拠としてはやや弱い」としている。その通りである。「やや弱い」というよりは、朝鮮人に関する部分は、彼が耳にしたうわさを報告しているにすぎないと読むべきだろう。

ところが、工藤夫妻はその直後に信じがたい「結論」を導き出すのである。
「だが、上野に来るまで多くの犯罪を繰り返しながら一団となって市中を襲っていた経緯を聞いていれば、自警団の血相が変わり、市民が恐怖におののくのは当然のことである。常識的にはこの談話が目撃証拠ではないとはいえ、ありのままを伝えている可能性が高いと思われる」
意味がまったく分からない文章である。「上野に来るまで多くの犯罪を繰り返しながら一団となって市中を襲っていた経緯を聞い」たのは誰なのだろうか。続く言葉を見る限りでは、自警団や市民であるようだ。だとすると、この文章で主題になっているのは、「経緯」が事実かどうかではなく、自警団や市民の「認識」だということになる。確かに、“朝鮮人が多くの犯罪を繰り返しながら一団となって市中を襲っているぞ”と耳にして、それを信じ込んだのであれば、自警団が血相を変えるのは「当然のこと」だろう。だとするとこの文章は、自警団の気持ちを説明した文章なのだろうか。

そう思っていると後半では、「常識的にはこの談話が目撃証拠ではないとはいえ、ありのままを伝えている可能性が高いと思われる」と続く。どうもこの談話が伝える上野への放火などが事実である可能性が高いと言いたいらしい。自警団が上野への放火を事実だと信じて血相を変えたことが、どうして放火の噂が「ありのままを伝えている」根拠になるのか。

Aは事実である、なぜならBさんがそれについて血相変えて怒っているから―という論理が果たして成り立つだろうか。カン違いや誤解によって誰かに腹を立てることなど、日常のなかで誰もがしばしば経験する、ありふれたことではないのか。

それとも後半の「ありのまま」とは、朝鮮人の放火のことを指すのではなく、そうした浮説に右往左往したり、血相を変えて朝鮮人を銃殺したりした人びとがいたという状況を「ありのままに伝えている」という意味なのであろうか。実は、『なかった』には、このような、主語も主題も論理展開も判然としない文章が非常に多い。

では、実際には当時、上野はどんな状況だったのか。地元の下谷区役所がまとめた文書があるので見てみよう。
「わが区に於ては二日、午前四時頃突如として『不逞鮮人今次の大災を好機至れりとして、予て用意の爆弾を投擲し、或はまた毒素を飲料水、菓子等に混入して飢渇に喘ぐ市民を燼滅せんとはかる』の仮想幻影的流言が飛んだかと思ふと、次の瞬間には早や『精養軒の井戸水変色す』『上野公園下の井戸水異常あり』『博物館の池水変色して金魚皆死す』などと続々所轄署に届出があつた。依つて直ちに急行試験するに何等の異変をも認められない。為めに之が事実無根を掲示すると共に、制服巡査を派して民衆をして安堵せしめ、その混雑を整理するといふ有様であつた。
夜に入つては更に『鮮人二人いとう松坂屋呉服店へ二個の爆弾を投じて発見逮捕され、取調の結果賞金をさへ所持す』とか『二日夜半の北大門町の火は社会主義者か鮮人かわからぬが、投弾者らしい者が路次より飛出した所を、群衆に殴殺された』とか『上野駅で二名の鮮人ビール瓶の石油により放火中発見されこれ亦(また)殴殺された』とかいふやうにあらゆる方面から尤(もっと)もらしい流言が飛び、遂には『鮮人警官に変装して出没してゐるから警察官とて油断すな』といふ言語に絶するものさへ飛んだ」
東京市下谷区役所『下谷区史附録大正震災志』(1937年刊)


下谷区役所も、人々が血相を変え、恐怖におののいた様子を事実として伝えているわけである。だが下谷区役所は、工藤夫妻のように「人々が血相を変えたから事実」とは主張していない。人々の恐怖の原因を「仮想幻影的流言」と総括している。井戸を調べたが何も検出されなかったのだから当然だろう。

1923年9月1日から1週間ほどの上野で何が起きたのかを本当に知りたいのであれば、震災直後の談話記事に真相を求めるのは間違っている。なぜなら、当時はまだ混乱が続いており、いったい何が起きているのか、はっきりしたことは誰にも分からない有様だったからだ。混乱の中で話され、書き留められた談話記事と、世の中が落ち着き、事態の全貌がはっきりして以降(翌月以降)にまとめられた記録や証言のどちらが実相に近いと考えるべきか、言うまでもないだろう。それでもなお、工藤夫妻が、この下谷区役所の記述の方が誤りなのだと主張したいのであれば、それなりに強力な反証をそろえてみせなければならないはずだ。混乱のさなかに書かれた震災直後の談話記事を次々とせわしげに示すだけでは、それは無理というものである。

ちなみに当時、上野公園は避難者であふれかえっていた。そこでは様々な流言が飛んだようである。作家の佐藤春夫もまた、自警団として動員され、幻の朝鮮人襲来に振り回されていた。そして、こうした流言によって起きた朝鮮人迫害の様子を目撃した証言も、いくつも残されている。