捜査が始まったという記事が
「放火の証拠」?
捜査が始まったという記事が
「放火の証拠」?
………… 要点 ………………………………………………………………
- 警察出動の時点の報道だけを切り取って「朝鮮人の放火」の「証拠」に仕立てている。
- 記事に登場する警視庁幹部の正力松太郎自身をはじめ、警察自身が否定している 。
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工藤夫妻による引用(『なかった』p.152)
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「不逞鮮人各所に放火―帝都に戒厳令を布く「一方猛火は依然として止まず意外の方面より火の手あがるの点につき疑問の節あり、次で朝鮮人抜刀事件起り、警視庁小林警務長係外特別高等刑事各課長刑事約三十名は五台の自動車にて現場に向つた。当市内鮮人、主義者等の放火及宣伝等頻々としてあり」
(『東京日日新聞』大正十二年九月三日)
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「刑事約三十名」は誤りで、原文では「刑事約二十名」だが、これは書き写した際の単なるケアレスミスだろう。
この記事は、『なかった』p.152~158にかけて、朝鮮人の放火が実在したことの証拠として掲げられた三つの記事の最初の一つである。震災当時広まった「朝鮮人の放火」という流言全体については、いずれ「放火」の項でまとめて論じるので、ここでは、上記の記事の内容の検証だけをすませておく。
最初に、この記事の扱いの奇妙さを指摘しなくてはならない。
この記事は、実際にはかなり長い記事の一部である。その全文は『なかった』p.171であらためて引用されている(当ブログでは「証拠史料編その12」として取り上げ、検証している)。もちろん、同じ記事を繰り返し引用すること自体は何の問題はない。しかし工藤夫妻のこの引用の場合、奇妙な点が二つある。ひとつは引用されている記事の見出しが微妙に違うこと。このp. 152では「不逞鮮人各所に放火―帝都に戒厳令を布く」となっているが、p. 171では
「不逗鮮人各所に放火し帝都に戒厳令を布く」
としている。改行のあるなしと、文言の一部が「放火―」と「放火し」という具合に異なっている。原文を見ると、実際は後者、p. 171の引用が正確だ。
もうひとつの奇妙な点は、p. 171では、記事本文のうち、p. 152で引用した部分だけを、まるで、くり抜くように、(略)と示して省略していることである。それによって、両者が同じ記事であることを分かりにくくしている。この部分はそんなに長くないのだから、略さなくてもよいのではないかと思うが、その意図は謎である。二つの別の記事のように見せかけたかったのであろうか。
さて、ここでは工藤夫妻のp. 152での引用部分の内容について検証する(「朝鮮人抜刀事件」については「『引用』証拠その12」で)。上の工藤夫妻の引用の仕方では文意が分かりにくいので、夫妻が引用を止めた後まで含めて、もう一度原文を引用する。工藤夫妻としては朝鮮人の放火の疑いで実際に警察が動いたことさえ示すことができればそれでいいのだろうが、警察が調べて最終的にどういう結論を出したのかを理解してもらうには、以下のようなまとまりで読んでいただく必要がある。
「一方猛火は依然として止まず意外の方面より火の手あがるの点につき疑問の節あり、次で朝鮮人抜刀事件起り、警視庁小林警務長係外特別高等刑事各課長刑事約二十名は五台の自動車にて現場に向つた。当市内鮮人、主義者等の放火及宣伝等頻々としてあり、二日夕刻より遂に戒厳令をしきこれが検挙に努めている。因(ちなみ)に二日未明より同日午後にわたり各署で極力捜査の結果午後四時までに本部富坂署で六名、麹町署で一名、牛込区管内で十名計十七名の現行犯を検挙したが、いづれも不逞鮮人である」。
「警視庁小林警務長係外特別高等刑事各課長」とは、警視庁本庁の小林警務課長と特高課や刑事部の課長たちということだろう。事実であれば、課長クラスがそろって動くのだから、警視庁としての指示に違いない。実際、この記事に書かれた内容と符合する記憶を、当時、警視庁官房主事(警視総監に次ぐ地位の幹部)であった正力松太郎が振り返って語っている。
正力松太郎の回想(「米騒動や大震災の思い出」読売新聞社1944年2月)
これを読むと、上の記事中に出てくる小石川富坂署に拘留されていた朝鮮人6名については、正力本人が出向いて調べたことが分かる。そして調べるほどに「犯罪事実はだんだん疑わしく」なったようである。そして正力は、2日の夜には「(朝鮮人の)来襲は虚報」という結論に至ったと語っている。
警視庁『大正大震火災誌』の小石川富坂署の項にも「放火準現行犯人なりとて、鮮人を拉致して同行し来るもの亦多し、依りて即日其取調を開始したれども、皆事実にあらざりき」とある。ただし、少なくとも9月2日の1日間には、正力や警視庁幹部たちは流言を信じていたと思われる。
震災翌日の9月2日は、朝鮮人暴動の流言が一挙に拡大した日である。警視庁の震災総括『大正大震火災誌』(1925年刊)の各署からの報告を見ると、どこの署でも、放火などの犯罪を行なったとして朝鮮人が次々と警察署に連行されてきたことが記されている。では彼らは実際に犯罪を行っていたのだろうか。それについては、戦後まもなくに吉河光貞検事がまとめた『関東大震災の治安回顧』(法務府審査局、1949年)中の「警視庁刑事部捜査課の活動状況」の項に記述がある。
「而して同日(2日)夕刻頃から不逞鮮人暴動襲来の流言盛んに行はれ、前述の如く各警察署から不逞鮮人の放火、井戸投毒其の他各種犯罪発生の報告が殺到するに至つたので、多数の課員は赤坂、四谷、麹町、芝、牛込、小石川等諸方面に出動して之が内偵捜査に当つたが、(警視庁本庁の)残留課員は自警団等が同行して来た鮮人百六十八名の収容に従事し、翌三日早朝から同課員総動員にて其の取調を開始して不逞鮮人に関する各種流言の虚実究明に努めたが、殆んど犯跡の認むべきものなく、総て流言の無根なるを闡明(せんめい)する結果となつた」(p.203)
工藤夫妻が引用している記事が伝えているのは、吉河検事が記述している警視庁の各署への内偵のことなのだろう。記事中の「本部富坂署で六名、麹町署で一名、牛込区管内で十名計十七名」という朝鮮人の逮捕者も、この日、住民自らが警察署に連行してきたり、あるいは住民の訴えを受けて警察が連行した者たちと思われる。実際には、東京全域で17人ではすまない大量の朝鮮人が捕らえられた。そして相当な人数を取り調べても、結局、犯罪を見つけることはほとんどできなかった。工藤夫妻が引用する記事中に出てくる「五台の自動車にて現場に向つた」刑事たちがたどり着いた結論は、そういうものだったのである。ちなみに9月15日付の読売新聞には、「警視庁木下刑事部長はもちろん実際捜査の任に当つた小泉捜査課長も『朝鮮人にして日本人を殺した者は一人も無い』と断言している」という記述もある。
住民の訴えを受けて朝鮮人を逮捕し、取調べたが、犯罪事実は認められなかった―。まとめるとこういうことになる。そして工藤夫妻が引用している新聞記事は、こうした取調べの顛末が判明する前の時点で書かれているものだ。誤認逮捕の時点で捕らえられた人を犯人視した記事のようなものである。
こうした記事を検証なしに「証拠」とする工藤夫妻のやり方に、工藤夫妻の「証拠」の提示の仕方の典型を見ることができる。逮捕したが調べてみたら犯罪事実がなかった、という話から、「逮捕した」という時点のものを切り取ってきて、恐ろしい犯罪があったかのように印象づけるだけで、検証もせずに次に飛び移るのである。もし誰かが、1994年の松本サリン事件当時の新聞をいま持ち出して、「犯人はオウム真理教ではなく、ある会社員だ。これを読めば一目瞭然だ。当時の新聞はどれもそう示唆している」と主張したらどうだろうか。誰もが、その人の誠実さか知性のいずれかを疑うはずだ。事実を知りたいのであれば、最終的に判明した事柄の全体を吟味するべきだろう。
われわれは1923年9月2日ではなく、その90年後に生きているのだから、彼らが実際に放火犯人だったのか、という視点で当時の記録を検証できるはずである。工藤夫妻は、そういう当たり前の検証を行う代わりに、連行時点の記事だけを切り取り、連行されたことによって朝鮮人が放火犯であったことは確定したかのように読者をミスリードしているのだ。