このブログについて

このブログは、工藤美代子/加藤康男による「関東大震災時の朝鮮人虐殺を否定する本を検証するために、

「民族差別への抗議行動・知らせ隊+チーム1923」が作成するものです。

初めてご覧になる方は、入門編「はじめに」からお読みください。

2015年2月24日火曜日

証拠史料編 ◉ その3

【「証拠史料」編―工藤夫妻の示す「証拠」史料を検証する】

品川を偵察した軍部隊が
「朝鮮人来襲は虚報」と報告している


………… 要点 ………………………………………………………………

  • 震災直後の談話記事である。
  • 「この目で見た」という目撃情報ではなく、談話者の状況認識を語っているものにすぎない。
  • “品川周辺で暴徒を探し回った軍部隊が「鮮人襲来の報は全然虚報」と結論を出している。

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工藤夫妻による引用(『なかった』p.44)
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「品川は三日に横浜方面から三百人位の朝鮮人が押寄せ掠奪したり爆弾を投じたりするので近所の住民は獲物を以て戦ひました。鮮人は鉄砲や日本刀で掛るので危険でした。其中に第三連隊がやつてきて鮮人は大分殺されましたが日本人が鮮人に間違はれて殺された者が沢山ありました」
(『北海タイムス』大正十二年九月六日)

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これもまた、『現代史資料6』からの孫引き(同書p.173)と思われる。工藤夫妻の引用では省かれてしまっているが、「東京電気学校生徒西郷正秀君」の談話記事である。工藤夫妻がp.42からp.44で朝鮮人暴動の「目撃者の談話」として掲げている記事の三つ目、最後のものだ。だが、一読して分かるように、品川の状況についての「西郷君」の認識を語っているものであり、そのどこまでが西郷君が「この目で見た」ことなのかはよく分からない。しかしこの記事の事実性については多言を要しない。以下に、警視庁『大正大震火災誌』第2編「警察署の活動」第43章の品川警察署大崎分署の報告から関連部分を引用する。

「(2日)午後五時頃管内戸越巡査派出所員より急報あり、曰く『自動車運転手の訴へに依れば鮮人約二百余名、神奈川県寺尾山方面に於て殺傷、掠奪、放火等の暴行を行ひ、漸次東京方面に向へるものの如し』と、而して荏原郡調布村大字下沼部の一農夫も亦(また)当署に来りて之と同様の申告を為したりしが、幾もなく、『鮮人約三千名既に多摩川を渉り、洗足村及び中延附近に来襲し、今や暴行を為しつつあり』など云へる情報をもたらすもの少なからず、是に於て署員を多摩川丸子方面に派遣して偵察せしめたるも異変を認めず、更に神奈川県を調査するも其事なし、尋で第一師団司令部より多摩川附近五里四方には不逞徒輩を見ずとの発表あり、即ち鮮人に関する報道は流言に過ぎざるを知り、之を民衆に伝へたれども敢て信ぜず、自警団を組織し、戎器を執りて自ら衛るもの多く、鮮人に対して或は迫害を加へ、或は逮捕して当署に同行するのみならず、内地人も亦鮮人と誤解せられて其迫害を受くるもの亦多し、是に於て翌三日管内在住鮮人百八十余名を保護検束するとともに(後略)」
(警視庁『大正大震火災誌』 p.1242・原文カナ)

警視庁『大正大震火災誌』は「国立国会図書館デジタルコレクション」で閲覧できる。

これが、世の中が落ち着いて以降の認識なのである。この大崎分署の報告のほか、流言に基づいて品川周辺で「暴徒鎮圧」に出動した軍部隊が、「鮮人襲来の報は全然虚報」という結論に達したことを記録する報告もある(歩兵第三連隊勲功具状、『現代史資料6』)。これらに加えて、さらには内務省警保局の後藤文夫局長の回想によっても、品川における「三百人位の朝鮮人が押寄せ掠奪したり爆弾を投じたりする」ような事態は否定されている。実際、「鉄砲や日本刀で掛る」朝鮮人を見たという住民の目撃証言も、震災直後のこの手の新聞記事をのぞいて、ひとつも残っていない。

9月6日と言えば、まだ震災直後の混乱期に属する。実際に起きていることは何か、多くの人がまだ理解できずにいた時期だ。「東京電気学校生徒西郷正秀君」はおそらくは数日前に東京を脱出したのであろう。遠く北海道の新聞が、裏を取ることもなく彼の談話を載せたのがこの記事だ。そして西郷君は、彼が事実だと考えている品川の状況を語ってはいるが、自らが目撃したことを語っているわけではない。果たしてこれが、暴動の実在を否定する記録や証言の厚みを覆すような証拠になりうるだろうか。工藤夫妻は、こうした疑問には何も答えていない。

ちなみに品川では、流言に端を発した迫害によって、立件されただけでも朝鮮人6人が重症を負い、日本人1人が殺されている。

横浜から朝鮮人数百人が来襲するという流言は、ほかに大森署や世田谷署の報告にも見ることができる。朝鮮人暴動流言が最も早く大規模に発生したのは横浜であり、避難民の移動にともなって東京に流れ込んだと見られている(吉河光貞『関東大震災の治安回顧』法務府審査局)が、横浜市から東海道を北上して東京に来るとき、品川はその玄関にあたる。品川で流言が盛んだったのはそのためだろう。付け加えておけば、警察もまた流言を数日間は信じ、拡散していたことが、多くの証言から分かっている。