意味不明な「新史料」
………… 要点 ………………………………………………………………
- “朝まで待っても朝鮮人は姿も現さなかった”のに、これが「朝鮮人暴動」の証拠?
- 「朝鮮人と赤が十分以内に襲撃してくる」と軍人が告げたことが、“朝鮮人と社会主義者の連携”を示す「新史料」??
- 2ページの間に完全に矛盾する主張を展開する奇怪さ
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さて、この手記の内容は、二人のアメリカ人旅行者が9月3日、4日と横浜、東京を歩いた報告である。工藤夫妻は引用に当って「その概要を見てみよう」と書いているので、原文そのままの引用ではなく、夫妻が短めにまとめたものなのだろう。それでもまだ長いので、ここで全文は引用せず、大まかな内容と重要な部分だけ紹介する。
この引用は、「一九二三年九月一日より十二日までのドディとジョンストンという『エムプレス・オブ・オーストラリア号』のアメリカ人船客の日記」という一文から始まる。
ドディとジョンストンの二人を乗せたエムプレス・オブ・オーストラリア号は、横浜港を出港する直前、震災に遭遇し、出航を断念する。海上で助けを求める人々をすくい上げるうちに、船は1500人以上の避難民で一杯になった。9月3日、二人は船を下りて徒歩で東京に向かうことにする。
「歩き始めてすぐに二人はライフルで武装した自警団に出会った。彼等は二人が朝鮮人と間違われないように、この辺すべての人達がしているように右腕に白か緑の腕章を捲くように強く勧めた」二人は、午後7時には品川に到着。ここでタクシーを拾って帝国ホテルに向かう。ここで唐突に次の言葉が入る。
「『朝鮮人』と『赤』については説明する価値がある。過去数年の間に多数の朝鮮人が労働力として日本に流入していた。また、日本の軍隊には、シベリアから帰国してボルシェビキの影響を受けた兵もいるといわれていた」夜、二人が帝国ホテルに到着すると、軍部隊がホテルを護衛していた。焼失したアメリカ大使館がホテルに移ってきていたのである。この先が重要な部分だ。
「三日、月曜日の夜十時二十分頃に、ホテルの管理部からすべての部屋の灯り(小さなローソクだった)を消すようにと軍部からの報せがあったと言ってきた。/朝鮮人と赤が十分以内に襲撃してくるからとのことだった。/それからホテルで野営をしていたさまざまな部隊はマシンガンを補給された。/何事もなくその夜は過ぎて、翌日二人はアメリカ大使のウッズに会って、それから横浜へ帰った(略)」
工藤夫妻の文章はこの引用の後、帝国ホテルの再建をめぐるディティールの説明に移ってしまう。結局、ロンドンまで出かけて入手したこの史料から、工藤夫妻が何を読み取ったのかについては一言もないままだ。小見出しは「帝国ホテルの恐怖体験記」。
報告者が外国人という珍しさはあるかもしれないが、朝鮮人と区別するための腕章とか、10分後に朝鮮人と社会主義者が襲ってくると言われるが結局何も起きなかったとか、無数に残っている震災回想記の類と変わらない内容だ。工藤夫妻は、この引用で、いったい読者に何を伝えたかったのだろうか。
この引用と関連していそうな内容が、『なかった』のp.220~221に出てくる。ここで工藤夫妻は、佐野真一の正力松太郎評伝『巨怪伝』を批判している。それが “朝鮮人暴動を虚構だとする前提に立って書かれているから” である。工藤夫妻は次のように佐野を批判する。
「『朝鮮人の背後に社会主義者がいる、という何ら根拠のない予断は、とりわけ軍隊のなかで根強く信じられていた』というくだりにいたっては、今日では多くの新史料から極めて明白となっている事実を著しく捻じ曲げた歴史の歪曲といわざるを得ない」なんと、朝鮮人暴動の背後に社会主義者がいたことは「今日では多くの新史料から極めて明白となっている事実」だというのだ。
ところがその舌の根も乾かないうちに、工藤夫妻は、次のページ、p.222で今度は全く正反対の主張をし始める。
「『流言輩語』という揺るぎない大前提に立った解釈が今日まで八十六年、続いてきた。朝鮮人による暴動は虚報だった、自警団は狂気のように朝鮮人を殺害した―という亡霊のような歴史観を疑うことは、誰一人としてしなかった」わけが分からない話である。朝鮮人暴動の背後に社会主義者がいた、という認識が「今日では多くの新史料から極めて明白となっている事実」として共有されているのであれば、そもそもその前提として朝鮮人暴動の事実性が認められていることになる。そうでなければ論理的におかしい。ところがその一方では、この80年間、朝鮮人暴動が事実であることを誰一人として認めなかった―と言って慨嘆する。つまり、朝鮮人暴動の事実は80年間も否定されてきたが、その朝鮮人暴動の背後に社会主義者がいたこと自体は「多くの新史料から極めて明白となっている」というのだ。完全な矛盾である。
そもそも、朝鮮人暴動とその背後の社会主義者の存在を明らかにした「新史料」とはいったいなんだろうか。そんな「新史料」を私たちは見たことがないし、現代の歴史学の世界でそのような主張を行う学者がいるとも聞いたことがない。第一、そんな都合のいい新史料があるなら真っ先に工藤夫妻の本のなかで紹介されているはずだが、彼らが引用しているのは1963年に刊行された『現代史資料6』に収録された記事をはじめ、既存の史料ばかりであることはすでに見てきたとおりである。
ここで私たちは初めて、アメリカ人の体験記の意味に思い至るのである。
『なかった』に登場する「新史料」と思しきものは2点しかない。工藤夫妻がロンドンで発見したという2点である。先ほど引用した手記と、朝鮮独立運動団体の宣伝文書だ。後者は工藤夫妻本人も認めるように、『現代史資料6』ですでに日本語訳が紹介されているものであり、そもそも社会主義者の話は全く出てこない。そうなると残るのは先ほどの手記のみということになる。
ひょっとしたら工藤夫妻は、この手記の中に「朝鮮人と社会主義者が10分以内に襲撃してくるから明かりを消せと言われた」とあることを指して、朝鮮人暴動が社会主義者と連携した証拠と考えているのではないだろうか。そうであれば、3ページ近くにわたってこの手記を紹介している意味が理解できる。そんなばかな、と思うだろうか。だが、工藤夫妻が史料をどのように「読む」か、ここまで一緒に見てきた皆さんは、その疑いを一笑に付すことはできないのではないか。
もしそうでないのなら、工藤夫妻は「多くの新史料がある」と主張しながら、自著の中でそれを一つも示せないままで、定説に全く反した主張を「極めて明白な事実」と強弁しているか、あるいはどこの大学図書館にも置いてある『現代史資料6』や新聞の縮刷版に載っている記事を指して「新史料」と呼んでいるかのどちらかということになる。
もちろん、関東大震災や「朝鮮人暴動」と関係なく、当時の朝鮮人活動家と社会主義者の間に人的つながりがあったという一般論を言いたかったのだという可能性もないではない。だとすると、そんなことは「新史料によって」などというこけおどしの言葉を使わずとも、概説書にいくらでも書いてあることにすぎない。それ以前に、佐野氏は朝鮮人と社会主義者の連携という話を、震災後の暴動流言に関連して書いているのであるから、工藤夫妻はその文脈を全く理解しない「反論」を行っていることになる。
いずれにしても途方に暮れるような話である。
とにかく、工藤夫妻が紹介する二人のアメリカ人の手記が、「朝鮮人暴動」の実在を根拠付ける目撃証言でないことだけは明らかだ。10分待っても、朝まで待っても、結局、朝鮮人と社会主義者は現れなかったのだから。これは、流言に右往左往した人々の、当時はありふれた経験を書きとめたものにすぎない。