【「証拠史料」編―工藤夫妻の示す「証拠」史料を検証する】
「証拠史料」編の読み方
「証拠史料」編では、工藤夫妻が「朝鮮人暴動」が実在した証拠を示す意味で行っている史料引用について、そのひとつひとつを取り上げて検証する。俎上に上げるのは、工藤夫妻が著書の中で行っている多くの引用のうち、「暴動の証拠」という文脈で登場する16本と、そういうわけではないがあまりにひどい史料の扱いなのでぜひ皆さんに紹介したい特別編1本の計17本である。検証のポイントは二つ。「この史料が本当に朝鮮人暴動の実在の証拠になっているか」という点と、工藤夫妻の史料の読み方・読ませ方・扱い方に問題はないか、という点である。
工藤夫妻による「証拠」史料引用の第一の問題は、そのほとんどが、情報が錯綜していた震災直後の新聞記事であるということである。16本中12本がこの時期のものだ。
震災直後には誤報、虚報が氾濫したこと、分けても朝鮮人暴動記事については流言をそのまま書いたものにすぎないという評価が震災から数ヵ月後には常識となり、その後もそれが定着していることについては、当サイトの「震災直後の新聞のデタラメ 」や「入門編 ◉ トリックその1 誤報・虚報が横行した震災直後の新聞記事を『証拠』に仕立てる」ですでに指摘した。ところが工藤夫妻は、記事の内容を額面通りの事実として論を進めている。
混乱が過ぎ去った後に書かれた報道、証言、行政の記録に照らせば、それらの記事に描かれている「朝鮮人暴動」が流言にすぎなかったことは自明である。ところが工藤夫妻は、そうした後の記録とつき合わせて震災直後の記事の事実性を検証しようとはしていない。
なぜ、混乱期の記事だけに固執するのだろうか。たとえ話をすれば、1994年の松本サリン事件の真相を追究すると称する人が、なぜか、誤った犯人視報道であふれた94年の記事だけを証拠として扱い、地下鉄サリン事件があった95年以降の記事や記録には一切ふれないようなものである。その底意を疑われても仕方ないだろう。
第一の視点は、工藤夫妻が「暴動の証拠」として掲げる史料の内容が、後の行政記録や報道などとつき合わせてみて、暴動の証拠という意味でどれだけの信憑性をもちうるかを検証するというものだ。
第二の視点は、史料の内容そのものではなく、工藤夫妻によるその読み方、読ませ方、扱い方を検証するものだ。
工藤夫妻の史料の読み方にはおかしな部分がたくさんあるが、そのパターンは3つある。
その一つのパターンは、「朝鮮人が襲ってくる」といった「伝聞」を語っているだけの談話記事や手記を、朝鮮人暴動の目撃証言であるかのように扱うことである。 “流言にあわてふためいたが、結局、1人の朝鮮人さえ見ることもなく終わった”という類の内容を、“幸いにも朝鮮人に攻撃されずにすんだ”エピソードとして朝鮮人暴動の証拠として掲げるという、呆れかえるようなことさえしている。
もう一つのパターンは、原文の一部を不自然に切り取ることで原文が伝える内容を歪め、工藤夫妻にとって都合のいい内容として読者に誤読させるというやり方だ。
たとえば「証拠史料編 ◉ その2」がその代表例である。「朝鮮人暴動の証拠」史料ではないがが、「特別編」として取り上げた大曲駒村『東京灰燼記』の引用も、完全に原文の趣旨をねじまげるひどい「引用」になっている。
三つ目のパターンとして、「入門編 ◉ トリックその4」で指摘した通り、(略)と示さずに原文の一部をこっそり省略しているものがある。しかもそれを凡例で居直っているのである。本来、それだけでレッドカードだが、それによって原文の内容を歪めている場合さえあるのだ。
そもそも工藤夫妻は、こうした史料の多くを、朝鮮人虐殺問題関連の史料を収録した基本文献である『現代史資料6 関東大震災と朝鮮人』から孫引きしているようだ。引用16本のうち11本が、同書に掲載されているものである。
後書きではなんと謝辞まで述べている。「本書を執筆するにあたっては、みすず書房『現代史資料6』を特に参考にさせていただき、多くの示唆を得た。明記して謝意を表したい」だそうである。書名の前には普通、著者名を書くものだと思うが、なぜか「みすず書房」と版元名を書いており、編者である姜徳相/琴乗洞の名前は書かない。不可解であり、不快である。