舞台は東京・音羽町なのに
なぜか横浜とカン違い
………… 要点 ………………………………………………………………
- 文章の舞台は東京・音羽町なのに、これを一貫して横浜だと思い込んでいる。
- (略)と示さない、隠された省略が2箇所ある
- 原文の正確な理解を妨げる略し方をしている
- 出典表記が不正直
- 「朝鮮人の放火」の目撃証言とは言えない
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工藤夫妻による引用(『なかった』p.57)
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「皆の視線は警察の方へと曲げられた。『あれ。泥棒が捕まへられて来た。』と老人が囁いた。私は『ハゝア。火事泥だらうな。』と思つて、気を附けて見ると、よく土方等の被つてゐるリボンも何もない鍔広のフェルト帽を被り、上は茶色の薄汚ないシヤツ一つで下に浅黄の汚れた小倉のズボンをはいた土方風の男が、若い人に右と左から手をとられて警察へ入る所だつた。後には警官がついてゐた。阿久津はすぐに席から駆け下りて様子を見に警察の中に入つていつた。しばらくして出て来て、『放火です。朝鮮人が放火したんです。』
放火と聞いて、私たちはゾツとした。又朝鮮人と言ふのを甚だ意外に思つた。私はカフエーの給仕だの、飴や筆を売りに来る行商人だのにいくらも朝鮮人を見てゐるが、いづれもおとなし相な人の良ささうな者許(ばか)りだつた。(略)あれ/\と言ふ中に、又一人連れて来られた。【A】
『太い野郎だ。火つけ道具を持つてやがる。』と誰かゞ云ふ。成程彼の手には、五月のお節句にたべる熊笹で三角に長く包んであるちまきの様な恰好のものを持つてゐた。『大方(おおかた)綿に石油を浸した物か何かゞあの中に入つてゐるんでせう。恐ろしい事をするやつがゐるなあ。』それからは、後から後から捕へられて来た。【B】
その後に従いて来た私の知つてる少年が、『僕。彼奴の捕まる初めから見てゐたんだよ。彼奴八丁目の材木屋の倒れ掛つてゐる材木の中にもぐり込んで火を点けてゐる所を近所の子供に見付けられたんだ。中々捕まらないのをやつとの事で捕まへたんだよ。』と語つた。(略)
お向ふの家では、奥さんとお嬢さんとで雑巾を持つて板塀を拭いて居た。私は一寸それが不思議に思はれたので失礼とは思つたが立ち止つて見てゐた。奥さん達は私に会釈して、『まあ。恐ろしいぢやございませんか。これが放火のしるしなんですと。そんな真似をされちやたまらないから、今一生懸命消している所なんですよ』私はその印を見せて貰つた。英語のK といふ字を左向きに書いたやうな、得体の知れぬ符牒だつた。朝鮮の文字かも知れぬ、と後に成つて皆が云つてゐた。
私は先づ自分の家の塀をよく見たが、何も書いてなかつた。お隣りの塀を見ると、明らかに二個処までも書いであつた。私たちの声をききつけてお隣りの小母さんが家から出てきた。『小母さん。やられてますぜ』と私が云つたので、小母さんもびつくりしてその印を見てゐた」
(生方敏郎『明治大正見聞史』1926)
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この引用には、工藤夫妻の資料の扱いのずさんさが端的に表れているので指摘しておく。その問題点は三つにまとめることができる。
第一の問題点は、中略の仕方である。この史料引用でも、(略)と示さない、読者には隠されている省略がある。当サイト側でその箇所を【A】【B】と示した。また、それだけでなく、(略)と明示されている箇所にしても、あまりにも省略されている部分が長すぎる。たとえば最初の(略)だが、「許りだつた。」と「あれ/\と言ふ中に」の間には、実は引用の始まりからそこまでの長さ以上に長いひとつの段落が、まるごと略されている。その上、「あれ/\と言ふ中に、又一人連れて来られた」の後の【A】部分には、その3倍の長さにわたって、(略)と示さない中略がなされている。
さらにそれに続く
「『太い野郎だ。火つけ道具を持つてやがる。』と誰かゞ云ふ。成程彼の手には、五月のお節句にたべる熊笹で三角に長く包んであるちまきの様な恰好のものを持つてゐた。『大方(おおかた)綿に石油を浸した物か何かゞあの中に入つてゐるんでせう。恐ろしい事をするやつがゐるなあ。』それからは、後から後から捕へられて来た」
の後の【B】部分では、またもや(略)と示さずにこっそりと省略が行われているが、その文章量は「太い野郎だ」から始まる上記の部分の1.5倍くらいの長さがある。
その後の、二つ目の(略)によって略されている文章の長さは、もっとひどい。「『やつとの事で捕まへたんだよ。』と語つた」で(略)と入り、「お向ふの家では」と再開されるわけだが、この二つの文章の間には、なんと工藤夫妻が引用している文章全部を合わせた分量の2倍ほどの長さの文章が隠れている。これでは、まったく別の文章を(略)でむりやりつなげているようなものだ。
省略するのがいけないというのではない。だが普通、そこまで離れている場合は、いったんカギカッコを閉じて、文章の別の部分の引用として続けるものである。原文に対する誤解を与えてしまう可能性があるからだ。
たとえて言えば
「おばあさんが川に洗濯に行くとドンブラコドンブラコと大きな桃が流れてきました。(略)桃太郎はすくすくと育って強い男の子になりました。【表示なしの略】犬はきび団子をもらい、桃太郎のお供になりました。(略)そして三人は宝物のおかげで幸せに暮らしました」とするようなものである。もとの話を知らない人は、「三人」をおばあさんと桃太郎と犬のことだと思うかもしれない。原文への誤解を避ける配慮が全く感じられない。
二つ目の問題点は出典表示である。『関東大震災「朝鮮人虐殺」はなかった』巻末の参考文献一覧では、この引用部分の出典は「生方敏郎『明治大正見聞史』(中公文庫、1979年)」となっている。ところがなぜか、本文で引用する際には著者である生方の名前を出していない。それは単にケアレスミスかもしれないが、おかしいのは出典を中公文庫版と表記している点である。
というのは、かな使いを見れば、この引用が中公文庫版からのものではないことは明らかなのである。なぜか。中公文庫版は、工藤夫妻が引用しているような旧かな使いではなく、新かな使いに直されているからである。
たとえば引用の冒頭で「『ハゝア。火事泥だらうな。』と思つて」とあるが、中公文庫版では「『ハハア。火事泥だろうな』と思って」である。工藤夫妻の引用が旧かなになっている理由は、1926年に刊行された春秋社版からの引用であるからか、あるいはその春秋社版を引用し、収録している『現代史資料6』からの孫引きだからか、そのどちらかしかない。素直に考えて後者だろう。ではなぜ出典を『現代史資料6』と書かずに、中公文庫と書くのだろうか。孫引きであれば、直接の出典を併記するべきだ(ちなみにこの文章は、正確に言えば『明治大正見聞史』に収められた「大震災後記」からの引用ということになる)。
第三の問題点は、おそらくは第二の問題点に関係するのだろうが、もっと致命的なものである。この引用は、工藤夫妻の本のなかで、「崩壊した横浜グランドホテル」という小見出しの後ろに置かれている。「続いて横浜市民を恐怖に陥れたのは朝鮮人が襲撃するという情報だった」という本文に続いて引用が始まり、引用を終えた後は、「横浜港の海岸通(山下町)にある横浜グランドホテルは…」と続く。「崩壊した横浜」という節の大部分が、この引用に当てられている。つまり工藤夫妻はこの文章を、横浜における事例として紹介しているのである。
ところが、実は生方が書いた「大震災後記」の舞台は、横浜ではない。舞台となるのは、生方が住んでいた東京・音羽町(現・文京区)であり、文中に出てくる警察署とは大塚警察署のことなのである。そのことは中公文庫版で前後を読んでいれば分かるはずのことだ。東京の出来事を横浜の出来事として紹介しているのだから、これは、引用のまずさといった話ですまされない。
工藤夫妻は、生方の証言の舞台が横浜だと強固に思いこんでいるようで、彼らの本で繰り返し言及している。
「この談話(生方とは別の証言)の主にしても朝鮮人が放火したのを自身の目で見たわけではない…横浜で確認されたような証言と比べれば強度に欠ける」(『なかった』p.146)、「横浜で板塀に書かれた妙な符号を母娘で消していた主婦の話は第一章で紹介した」(同p.218)、「横浜に始まった例の奇妙な符号の謎ときである」(同p.257)。無残としか言いようがない。史料の多くを『現代史資料6』に頼り切るのみならず、それすら落ちついて読んでいないからこういうことになるのだ。
さて、史料の内容の検証に入ろう。この文章が「何か」の目撃証言としての資格を持つのは確かだ。だが、すでに指摘したように、この引用は原文のところどころを切り取って、(略)や(略)なしの省略でつなげているため、実際には原文に描かれている情景が正確に再現されていない。本来であれば、略されている部分も含めて全文をご覧いただくのがよいのだが、略されている部分があまりに長いので、ここでは、略の多用によって見えなくなっているポイントのみを指摘しておく。
この文章は震災翌日の9月2日午後、東京の大塚警察署近くの路上で生方が見たことを書いたものだ。生方が、焼失地域の人々の大移動でごった返す音羽通りに立っていると、工藤夫妻が引用している、朝鮮人たちが警察署に連行されてくる場面になる。
工藤夫妻による、(略)や「隠し省略」を交えた引用で見えにくくされているのは、警察署に連行されてくる朝鮮人労働者が相当な数に上ったということだ。「私は二十四人迄は数へたが、それから先は数へつくされなかつた」と生方は書いている。また、(略)と示さない中略によって分からなくなっているが、少年が「僕。彼奴の捕まる初めから見てゐたんだよ」と言っているのは、労働者の中の一人で、ケガをしているらしく荷車で運ばれて来た男を指す。
工藤夫妻の引用で略されてしまっている文章の中には、詰襟姿の学生が連行されていく場面もある。誰かがそれを見て、「社会主義の火附けだ」と叫ぶが、後に、近所に住む早稲田中学の学生であることが分かる。その学生は、朝鮮人を殴る人々をとがめたために共犯者、「社会主義者」の疑いをかけられて連行されてしまったのである。このエピソードは、警察署前に集まる人々が根拠薄弱な流言を信じてパニックに陥っていることをうかがわせる重要なもののはずだが、工藤夫妻はこれを省略し、読者の目から隠してしまっている。
大騒ぎの中で、今度は「警察署の横手に火をかけようとしてマツチをすつていた男」が子どもにみつかり、たちまち群衆に取り押さえられる。生方は「日のかんかん当る真昼間、群集を前にしてのこの放火には、無鉄砲といはふか死物狂ひと云はうか、私達はたゞ呆れるの外はなかつた」と書いている。
生方は帰宅するが、路地にまで人が入って来ては、朝鮮人が逃げ込んだ、と騒ぐ。「時々刻々に目に見えぬ危険がこの町を襲うて来る様な感じがした」。そのうちに、工藤夫妻の引用部分にも出てくる符牒騒ぎが起こる。さらに生方のところに阿久津(生方の書生)が飛び込んで来る。「先生。大変です。もうどうしても、一刻も早く何処かへお逃げなさい。前の山に朝鮮人が三十人入つて、爆弾を持つて警察の巡査とここで戦争するのだ相です」。生方は、大袈裟なことを言うな、朝鮮人たちは刀もヤリも棍棒ももってないじゃないか、と反論するが、近所もみな避難すると知って驚き、結局は自分たちも避難を始めるところで、この「大震災後記」は終わる。
午後の数時間のうちに、あれよあれよと事態が高じていったわけである。関東大震災時のこの手の回想をいくらかでも読んでいる人であれば、ここに描かれているのは、当時しばしば見られた、幻想的な流言に右往左往する人々の姿だとピンと来るだろう。平時では信じがたいことだが、伝言ゲームによって「近所の公園で憲兵と朝鮮人が格闘している」といった類の幻想じみた流言が形成され、町内の人があわてふためいたといった類の話はいくらでも残っている。
この話にもそうした感触がある。労働者がそろって持っている「ちまきのようなもの」は本当に火付け道具だろうか。冷静に考えれば、警察が放火犯を連行する際に、犯行に使われた道具を容疑者の腰にぶら下げさせたままにしておくだろうか。犯人が数十人もまとまって捕まるというのもおかしいし、近所の野次馬と避難民でごった返すなか、警察署の裏手に火をつける男がいるというのも信じがたい話である。そして近所の中学生があっという間に「社会主義の火附け」にされてしまう顛末。朝鮮人30人が音羽町の山に立てこもっているという話に至っては、どう考えても荒唐無稽である。Kを左向きにしたような落書きは朝鮮語であり、放火を指示する符号に違いない、という話が馬鹿げていることは、もう説明の要もないだろう。
また、生方自身は連行されていく朝鮮人の姿しか見ていない。少年が「見た」のさえも、よく読めば朝鮮人が捕まる瞬間であって、「放火を見た」のは別の「近所の子ども」であることが分かる。朝鮮人が放火する場面は、直接は出てこない。結局このエッセイは、迫害される朝鮮人たちと流言に右往左往する人々の姿を記録した目撃証言ではあっても、朝鮮人による放火の目撃証言とは言えない。
実は、警視庁『大正大震火災誌』に掲載されている小石川大塚警察署の報告(p.1086)には、以下のようにある。
「九月二日の正午頃、不逞鮮人等暴行を為し、或は将に兵器廠を襲撃せんとするの計画ありとの流言始めて起こるや、民心之が為に動揺して自警団の発生を促し、更に鮮人に対する迫害行われたれば、本署は鮮人を検束するの必要を感じ、即日管内を物色して、八十五名を署内に収容せり」
警視庁『大正大震火災誌』小石川大塚警察署の報告(p.1086) |
いずれにしろ、警察署の前に立っていれば、85人の朝鮮人たちが次から次へと連行されてくる光景を当然、見ることになる。そして、巡査が引っ張っていく以上、何か悪事を行ったに違いないと考える人は少なくないだろう。その結果、放火をしたらしいというささやきが近所に広がるのも不思議ではない。そのうちに人々は精神的な恐慌に呑まれていったのである。