このブログについて

このブログは、工藤美代子/加藤康男による「関東大震災時の朝鮮人虐殺を否定する本を検証するために、

「民族差別への抗議行動・知らせ隊+チーム1923」が作成するものです。

初めてご覧になる方は、入門編「はじめに」からお読みください。

2015年4月19日日曜日

テーマ別検証編 ◉ その1

朝鮮人が放火した?
…………………………………………………………………………………
▶工藤夫妻の主張              

「関東大震災時の火災拡大の原因は、
朝鮮人による放火だ」


▶工藤夫妻の主張はなぜおかしいか

  • 地震後の火災の深刻な広がりが不思議だ→放火に違いない→放火なら朝鮮人だ、という根拠のない三段論法である。

  • 実際には、当時の詳細な調査で延焼の仕組みは相当分かっており、出火原因に放火は含まれていないことも分かっているが、工藤夫妻はこうした資料にさえ当たっていない。
  • 放火の罪で起訴された朝鮮人は当時、一人もいない。

…………………………………………………………………………………

◉ 根拠も示せない「三段論法」

関東大震災では、建物の倒壊より火災の被害のほうがはるかに大きかったことはよく知られている。焼失面積は東京市で40%以上、横浜市で80%以上に達したという。火災は3日の朝まで続いた(工藤夫妻は同日夕方までと書いているが、これは誤り)。さて、工藤夫妻は、この大火災の中に朝鮮人による放火を原因とするものがかなりの割合で存在すると主張している。『関東大震災「朝鮮人虐殺」はなかった』から一部を引用してみよう。
「さて、南東方向から吹く風にしては風上にある所から思わぬ火の手が上がる、それも一日夜から二日以降になって、突然燃え始める事態に市民はようやくそれが放火によるものだと気がつく。当然、自警団は朝鮮人の放火以外に考えられないと思うようになった」(『なかった』p.151)
「二日の午後になって新しい火災が発生するということは常識では考えにくい。罹災者は避難し、その後はもはや燃えるものは燃え尽きていたはずだ」(同p.151)
   「風上に逃げたにもかかわらず、不審火の発火のため一帯が火の海と化し、落命した市民の数は知れないほど多い。/横浜で目撃されたように、朝鮮人の放火があったとされるゆえんである」(同p.153)
ちなみに、最後の引用中の「横浜で目撃されたように」とは、当ブログ中の「証拠史料編その4/舞台は東京・音羽町なのになぜか横浜とカン違い」で検証したエピソードのことを指している。これが放火の目撃証言ではないどころか、横浜の話ですらないことは「証拠史料編その4」で明らかにした。 

話を戻す。一読して分かるように、工藤夫妻は、①火災があんなに広がったのは謎だとした上で、②誰かが放火したんじゃないか、③放火なら朝鮮人の仕業に決まっている―と三段論法の主張を行っているわけである。その上、①②③とも、まともな論拠は提示されない。①については、出火原因として薬品が最も多いとされているが当時の東京はそんなに劇薬にあふれていたのか、とか、深川は運河がたくさんあったのに延焼するのはおかしい、といった程度の素朴な疑問を提示しているが、それだけならどうとでも言える話にすぎないだろう。そのうえ、②③については、例によって震災直後の流言記事以外には何の根拠も提示されていない。仮に①の「火災の拡大は謎だ」が成立したとして、自動的に③まで証明されることになるだろうか。なるわけがない。

とはいうものの、それで話を終えるのもナンなので、以下で、この①②③をそれぞれ検証してみることにする。

◉「火災拡大の原因が謎」という大間違い

最初に、①火災拡大の原因が謎だ、という主張について。 果たして工藤夫妻が言うように、関東大震災時の火災の拡大には不審な点があるのだろうか。

工藤夫妻は、火災拡大の「謎」として、「二日の午後になって(鎮火したはずの場所から)新しい火災が発生する」「南東方向から吹く風にしては風上にある所から思わぬ火の手が上がる」の2点を挙げている。だが、これはどちらも、ふつうに説明がつく事態である。

まず、鎮火した場所からまた火が出るのは「再燃火災」という、ありふれた現象である。『消防用語事典』(消防庁、1982年)には、「再燃とは、消火作業の後に残り火により家屋の一部が再び燃え上がることをいい、その火災が再燃火災である」とある。消防士の世界では、殉職、自らの宿舎からの出火と並んで、起こしてはならない出来事とされているそうである。実際、2009年には、函館市で消防署の出動で鎮火した22時間後に再燃火災が起こっている。原因は布団の中に残った種火だった。消防士でさえ、気をつけなければこのような失敗を犯すのだ。一般人が起こす再燃火災は相当な頻度に上る。

ましてや都市災害時であればなおさらだ。1995年2月7日付の日本経済新聞は、神戸大学の研究グループが行なった同年1月の阪神淡路大震災時の火災についての調査結果を報じている。それによると、阪神大震災時には、地震の2日後、3日後に再燃火災が起こったケースも多かったとのことである。この時も、再燃火災という現象を知らずに「外国人の放火だ」とする流言が出現したらしい。

◉関東大震災時、風向きは頻繁に変わった

もうひとつ、「南東方向から吹く風にしては風上にある所から思わぬ火の手が上がる」はどうか。これは誤った事実認識から来る思い違いにすぎない。というのは、9月1日から2日にかけて、ずっと南東方向から風が吹いていたわけではないからだ。それどころか、風向きは頻繁に変わったのである。関東大震災当時は、台風に近いほどの低気圧が通過中で、強風が吹き荒れていた。「しかも風向が南→西→北→南と何度も変化した」(田中哮義編『日本災害資料集 火災編第5巻』解説)のだ。それによって火災被害が拡大したことは、関東大震災を扱ったたいていの本に書かれている。

「思わぬ火の手が上がる」のは、「飛び火」によるものと説明できる。遠くから火の粉が気流に乗って飛んでくるのである。関東大震災時には、すさまじい強風もあって、この飛び火がかなり多かった。後述する「震災予防調査会報告」は、この飛び火を火災拡大の重要な要素と見ている。そのメカニズムはいまだ解明されていないようだが、専門家は「全く火源からの加熱が無視できるような環境でも火の粉を大量に含んだ気流が吹き付ければ簡単に火災拡大が起きることは現実に観測されて」いると指摘している(塚越功「関東大震災における火災」)。関東大震災時には、気流に舞い上げられた書類などが千葉県にまで降り注いだことが記録されている。

◉公式の被害者調査の存在すら知らない工藤夫妻

苦笑してしまうのは、工藤夫妻が火災の拡大が謎だと強調する先の箇所で、東京市がまとめた『東京震災録』に掲載された火災報告をとりあげて、朝鮮人の放火が出てこないからといって「他人事の役人報告以外の何ものでもない書類の典型」だと切り捨てていることだ。夫妻はどうやら、この調査が東京市の役人の手によって行なわれたのだと考えているらしい。だがそれは全くの誤りである。火災の発生と拡大の全貌を調べたのは東京市の役人ではなく、文部省の震災予防調査会であり、そこに集った当代随一の専門家たちである。関東大震災についてかつてない新説を世に問うのであれば、その程度のことは知っておいてほしいものである。

震災予防調査会は、1891年に設立された文部省所轄の研究機関である。震災の翌年に設立される地震研究所の前身だ。関東大震災の調査報告は、巨大地震発生を警告していたことで有名な東京帝国大学の今村明恒助教授を責任者にすえ、警視庁で一貫して消防畑を歩んだ緒方惟一郎、内務省の井上一之、東京帝大名誉教授で物理学者の中村清二、同じく物理学者の寺田寅彦など、当時としては最高峰の専門家・科学者を結集したチームが、1年半の時間をかけてまとめたものである。

とくに中村清二による調査は徹底したものだった。彼は東京帝大の学生たちを動員して焼失地域全域の被災者に聞き取り調査を行い、火がどのように発生し、どの方向に延焼していったかを解明したのである。これにもとづいて作成された「東京市火災動態地図」は今でも、都市防火研究の貴重な資料として活用されている。もちろん、その細部の正確さには時代的な制約も含め、限界もあるだろうが、全体的には今に至るも関東大震災時の火災についての最も信頼のおける報告として認められているのである。

◉「鮮人放火に関する流言の内容が如何に無稽なりしか」

ではこの調査報告で、都心をなめつくした震災時3日間の延焼において、「放火」がどれだけの比重を占めたと書かれているだろうか。答えは「ゼロ」である。当時の最高峰の科学者たちが、公式調査報告において、関東大震災時の火災の拡大は「放火」によるものではない―と結論を出しているのである。ところが工藤夫妻は、その調査報告の存在すら知らないのだ。

これが工藤夫妻の主張する、②誰かが放火したんじゃないか―に対する答えだ。ここからはこの②と、合わせて③放火なら朝鮮人だ―についても検証してみよう。

関東大震災期に放火そのものがなかったわけではない。警視庁『大正大震火災誌』によれば、警視庁管内だけで9月中に25件の放火があった。前年同期の5倍であるという。この25件の火災について同書は、「災後の人心の動揺と警戒の不備とに乗じ、平素の怨恨を晴さんとするものを以て其の多数を占め、其他或は悪戯」が多かったと書いており、政治的、組織的な犯行は認めていない。実際、当時の記録や報道には、使用人が主家の物置に火をつけたとか、放火犯を捕まえてみたら10代の少女だったといった類の話も散見されるから、警視庁の総括は納得がいくものだ。

さらに、『大正大震火災誌』はこれに続けて、
「当時世上にては不逞鮮人放火の流言頻りに伝播せられしかども九月中に検挙せる放火犯人中、鮮人は僅かに軽微なる未遂罪二件を算するのみにして、其他は皆内地人なりしに徴せば、鮮人放火に関する流言の内容が如何に無稽なりしかを推察するに足らん」
と記している。放火で起訴された朝鮮人は存在しない(注)ので、この未遂罪2件も不起訴だったということになる。あまりに証拠が薄弱だったのだろう。震災直後、無数の朝鮮人が放火や井戸への投毒の疑いをかけられて警察に連れて来られ、取り調べを受けている。その結果が「軽微なる未遂罪二件」だけ、しかもそれさえ起訴に耐えうるものではなかったということの意味を、よくよく考えるべきだろう。

◉放火による延焼自体が「件数ゼロ」

また、司法省の報告書(「震災後に於ける刑事事犯及之に関連する事項調査書」)中の出火リストには8件の放火が記されている。そのうち3件で犯人が「氏名不詳の朝鮮人」とされている。そして例によって、彼らはその場で殺されていたり、行方不明だったりする。『20分でわかる「虐殺否定論」のウソ・その6/「悪いことをした朝鮮人もいた」のか』 で触れたように、司法省の報告書が、朝鮮人の犯罪を不確かなものも含めて強調しようという目的をもっていたことを考えれば、これを朝鮮人が実際に放火を行った証拠として扱うのは早計だろう。その上で、この報告書でさえも、この3件を含めて「其の大部分は直に消止めらる」「火災原因(延焼原因の意)の放火に出づるものは一も存在せず」としているのである。つまり、放火による延焼はなかったということだ。

当時予想もされていなかった大規模な都市火災が発生したのであるから、その出火原因や全貌が100%解明されたとすれば、その方が不思議である。だが少なくとも、工藤夫妻が描くような組織的で広範囲にわたる放火が存在しなかったことだけは、こうした史料を読めば明らかだ。この時期、放火の罪で逮捕された日本人の実名入りの新聞記事はいくつも残っているが、先述のように、放火の罪で起訴された朝鮮人は一人もいない。工藤夫妻の言うような、朝鮮人の放火によって多くの人が命を落としたという主張が成り立つ余地は全くないのである。

◉残る根拠は “震災直後の流言記事” だけ

工藤夫妻の手元に残るのは、結局、例によって震災直後の新聞記事のみである。「朝鮮人の放火」を証明するため、工藤夫妻が登場させている新聞記事は3つ。「証拠史料編」でとりあげた「その8」、「その9」、「その10」がそれにあたる。くわしくは該当記事の箇所をみて頂ければと思うが、一言で言えば、どの記事も、その後の公的な記録(所轄警察署の報告等)などによって、内容の事実性が否定されているものだ。もちろん、公式記録の方が間違っていると主張することも可能だが、それならそのための論証手続きを踏むべきだろう。だが、ここでも工藤夫妻は、記事に書いてあるから事実だと主張するだけだ。「その10」などは、朝鮮人を拷問したら放火を自白したという談話記事である。そういうものに証拠能力があると考える神経が分からない。皆さんはどんな拷問を受けても虚偽の自白をしない自信があるだろうか。

繰り返すが、震災直後の混乱期の記事を証拠採用するのであれば、記事そのものとは別に、記事内容の事実性を裏づける作業が必要だ。工藤夫妻が証拠として列挙した記事について言えば、今のところ、裏付けどころかそれらの事実性を否定する材料しかない。

朝鮮人の大規模な放火があった、関東大震災の火災被害の大きな部分が、朝鮮人の放火によるものだ―工藤夫妻のこんな主張は、まったく成り立つ余地がない。妄想としか言いようがないのである。

(注)司法省作成による「震災後に於ける刑事事犯及之に関連する事項調査書」、「鮮人問題に関する『ステートメント』」による。いずれも姜徳相/琴秉洞編『現代史資料6 関東大震災と朝鮮人』(みすず書房)収録。当サイト内の『20分でわかる「虐殺否定論」のウソ・その6/「悪いことをした朝鮮人もいた」のか』も参照のこと。

参考文献
  • 田中哮義編『日本災害資料集 火災編第5巻 震災予防調査会報告』クレス出版、2013年
  • 塚越功「関東大震災における火災」(「建築防災」2000年9月号)
  • 広報ぼうさい「1923(大正12)年関東大震災 火災被害の実態と特徴」  →PDF
  • 内閣府中央防災会議専門調査会「1923関東大震災 第一編」(2006年)「第5章 火災被害の実態と特徴」 →PDF
  • 姜徳相/琴秉洞編『現代史資料6 関東大震災と朝鮮人』みすず書房、1963年