誤報・虚報が横行した
震災直後の新聞記事を
「証拠」に仕立てる
工藤夫妻は、何を根拠に“朝鮮人暴動は実在した”というのであろうか。震災当時の新聞記事である。新聞を見れば、朝鮮人暴動を伝える記事が無数にあるではないか、これが証拠だ―というのだ。工藤夫妻は『なかった』の中で、そうした記事を次から次へと引用する。
「不逞の鮮人約二千は腕を組んで(横浜)市中を横行」
「鮮人が暴動を起し市内各所に出没して強盗、強姦、殺人等をやつて居る」
「品川には三日に横浜方面から三百人位の朝鮮人が押寄せ掠奪したり爆弾を投じたりするので近所の住民は獲物を以て戦ひました」…。
その生々しい迫力に圧倒される読者も多いに違いない。こんなにはっきりと朝鮮人の暴動を伝える記事が、これほど多く残されているのか。これまで教えられてきた歴史とは正反対じゃないか…というわけだ。実際、工藤夫妻は、これらの記事の存在こそが暴動の証拠であるとして論を展開していく。
だが、工藤夫妻が紹介する新聞記事の日付をよく見ていくと、そのほとんどが震災直後(1923年9月1日から10日程度)のものであることに気づく。朝鮮人暴動の「証拠」として挙げてられている16本中、12本が9月8日までのものなのである(残りの4本については後述)。
実は震災直後の新聞紙面に「朝鮮人暴動」記事が無数に存在するのは事実である。それは工藤夫妻が初めて発見したことでもなんでもない。研究者はもちろん、ちょっとでも当時のことに興味をもって調べたことがある人であれば誰でも知っていることだ。そしてまた、震災直後の混乱期を過ぎると「朝鮮人暴動」記事がぱったりと消えてしまうのも事実なのである。翌10月下旬以降は、朝鮮人暴動ではなく、一転して自警団の朝鮮人虐殺の記事が紙面を賑わすようになる。なぜだろうか。
震災直後の新聞紙面はいずれも大混乱であった。東京市内の新聞社のほとんどが壊滅する中で、通信や交通の崩壊に地方紙の「競争的流入」(警視庁『大正大震火災誌』)も加わって、とんでもない虚報・誤報が横行したのである。「山本首相暗殺」「伊豆大島沈没」、さらには「摂政宮(後の昭和天皇)が行方不明」といった号外までが飛び交った。
だが時間が経ち混乱が収まってくると、何が事実で何がそうでないか、おのずと明らかになってくる。暗殺されたはずの山本首相は国会に登壇し、沈んだはずの伊豆大島は海上に姿をしっかり見せているのだから当然だ。
朝鮮人暴動も同じだ。先に紹介したような「三百人位の朝鮮人が押寄せ掠奪」だの「不逞の鮮人約二千が横行」だのといった光景を、「この目で確かに見た」という人はついに一人も現れなかったのである。震災直後の新聞は、避難民が口々に叫んでいた流言を疑うこともなく、そのまま事実として報道していたのだ。新聞の鬼と呼ばれた山根真治郎は、当時の「朝鮮人暴動」記事の氾濫について「常軌を逸した誤報を重ねて悔を千歳に遺した」と1941年に回想している→◉山根真治郎「誤報とその責任」。
新聞の流言報道による治安のさらなる悪化を危惧した政府は9月7日、「朝鮮人」報道を禁止する。そしてこれが10月20日に解除されたとき、もはやどの新聞も「朝鮮人暴動」を伝えることはなかった。新聞各紙がいっせいに書きたてたのは、「流言蜚語に狂つて逆上していた」(→◉五十八名の労働者を数珠ぎにして虐殺)自警団による朝鮮人虐殺の残酷な様相であり、彼らに対する検挙の報であり、加えて当初は虐殺をあおっていた行政の責任問題であった(→◉鮮人襲来を巡査が触れ回る)。
作家の田中貢太郎は、震災から4ヵ月後の1924年1月に刊行された『日本大震災史』で、朝鮮人虐殺について「鮮人暴動の流言に血迷つた自警団の鮮人及び鮮人と誤つた内地人に対する虐殺事件」(→◉自警団の暴行、朝鮮人虐殺その他)とまとめている。
また、保守派知識人の徳富蘇峰は、9月末には早くも「かかる流言飛語―すなわち朝鮮人大陰謀の社会の人心をかく乱したる結果の激甚なる」ことを嘆じている(→◉流言飛語)。これが当時の一般的な事実認識なのである。
行政機関の認識も同様だ。
たとえば工藤夫妻が証拠と主張する「不逞の鮮人約二千は腕を組んで(横浜)市中を横行」という記事について言えば、神奈川県知事は「(朝鮮人が)隊伍を組みて来襲せしなどのこと皆無」(→◉神奈川県罹災状況)と報告し、神奈川警備隊司令官は「之(朝鮮人暴動)を徹底的に調査せしに悉く事実無根に帰着せり」(→◉神奈川警備隊司令官の回想)と書いている(ブログ『記憶を刻む』「公式記録と要人の証言」参照)。
だが、工藤夫妻が紹介する新聞記事の日付をよく見ていくと、そのほとんどが震災直後(1923年9月1日から10日程度)のものであることに気づく。朝鮮人暴動の「証拠」として挙げてられている16本中、12本が9月8日までのものなのである(残りの4本については後述)。
実は震災直後の新聞紙面に「朝鮮人暴動」記事が無数に存在するのは事実である。それは工藤夫妻が初めて発見したことでもなんでもない。研究者はもちろん、ちょっとでも当時のことに興味をもって調べたことがある人であれば誰でも知っていることだ。そしてまた、震災直後の混乱期を過ぎると「朝鮮人暴動」記事がぱったりと消えてしまうのも事実なのである。翌10月下旬以降は、朝鮮人暴動ではなく、一転して自警団の朝鮮人虐殺の記事が紙面を賑わすようになる。なぜだろうか。
震災直後の新聞紙面はいずれも大混乱であった。東京市内の新聞社のほとんどが壊滅する中で、通信や交通の崩壊に地方紙の「競争的流入」(警視庁『大正大震火災誌』)も加わって、とんでもない虚報・誤報が横行したのである。「山本首相暗殺」「伊豆大島沈没」、さらには「摂政宮(後の昭和天皇)が行方不明」といった号外までが飛び交った。
虚報・誤報画像はこちら→◉記憶に刻む「デマ記事」
だが時間が経ち混乱が収まってくると、何が事実で何がそうでないか、おのずと明らかになってくる。暗殺されたはずの山本首相は国会に登壇し、沈んだはずの伊豆大島は海上に姿をしっかり見せているのだから当然だ。
朝鮮人暴動も同じだ。先に紹介したような「三百人位の朝鮮人が押寄せ掠奪」だの「不逞の鮮人約二千が横行」だのといった光景を、「この目で確かに見た」という人はついに一人も現れなかったのである。震災直後の新聞は、避難民が口々に叫んでいた流言を疑うこともなく、そのまま事実として報道していたのだ。新聞の鬼と呼ばれた山根真治郎は、当時の「朝鮮人暴動」記事の氾濫について「常軌を逸した誤報を重ねて悔を千歳に遺した」と1941年に回想している→◉山根真治郎「誤報とその責任」。
新聞の流言報道による治安のさらなる悪化を危惧した政府は9月7日、「朝鮮人」報道を禁止する。そしてこれが10月20日に解除されたとき、もはやどの新聞も「朝鮮人暴動」を伝えることはなかった。新聞各紙がいっせいに書きたてたのは、「流言蜚語に狂つて逆上していた」(→◉五十八名の労働者を数珠ぎにして虐殺)自警団による朝鮮人虐殺の残酷な様相であり、彼らに対する検挙の報であり、加えて当初は虐殺をあおっていた行政の責任問題であった(→◉鮮人襲来を巡査が触れ回る)。
作家の田中貢太郎は、震災から4ヵ月後の1924年1月に刊行された『日本大震災史』で、朝鮮人虐殺について「鮮人暴動の流言に血迷つた自警団の鮮人及び鮮人と誤つた内地人に対する虐殺事件」(→◉自警団の暴行、朝鮮人虐殺その他)とまとめている。
また、保守派知識人の徳富蘇峰は、9月末には早くも「かかる流言飛語―すなわち朝鮮人大陰謀の社会の人心をかく乱したる結果の激甚なる」ことを嘆じている(→◉流言飛語)。これが当時の一般的な事実認識なのである。
行政機関の認識も同様だ。
たとえば工藤夫妻が証拠と主張する「不逞の鮮人約二千は腕を組んで(横浜)市中を横行」という記事について言えば、神奈川県知事は「(朝鮮人が)隊伍を組みて来襲せしなどのこと皆無」(→◉神奈川県罹災状況)と報告し、神奈川警備隊司令官は「之(朝鮮人暴動)を徹底的に調査せしに悉く事実無根に帰着せり」(→◉神奈川警備隊司令官の回想)と書いている(ブログ『記憶を刻む』「公式記録と要人の証言」参照)。
メディアや行政機関だけではない。関東大震災は関東地方の数百万人が経験した大事件であるから、無数の人々が自らの経験や見聞を書き残している。作家や文化人に加えて庶民の証言も多い。手記や日記のほか、自治体や学者による聞き取り、老人ホームの思い出集まで、数え切れないほどだ。だがどこにも、腕を組んで横行する数千の朝鮮人をこの目で見た―という記録は残っていないのだ。残っているのは、流言に怯えた記録であり、朝鮮人が迫害され、殺されるのを見たという記録ばかりなのである。
「朝鮮人暴動」を伝える記事など、極端な混乱状況であった震災直後の新聞にしか登場しない。そんなものは流言に過ぎなかったというのが、震災からしばらく経った頃の一般的な認識だったのだ。それは10月以降の新聞や行政記録、知識人の文章などを見れば一目瞭然なのである。それは決して戦後になってGHQやら日教組やらが「捏造」した認識ではない。
ところが工藤夫妻は、混乱が続く震災直後に書かれた「朝鮮人暴動」記事だけを事実と称して抜き出しつつ、その後にそれが誤報、虚報だったと当時の人々が理解していく経緯や、その後の報道や記録についてはろくに検証しようともしない。むしろ読者の目からひた隠しにしている。あとはデマ記事に都合のいい解釈をまぶしていけば、「朝鮮人暴動」説の完成だ。これが、震災直後の流言記事を証拠に仕立てるというトリックの仕組みなのである。
しかも呆れたことに、工藤夫妻が持ち出す新聞記事を中心にした16本の「暴動の証拠」史料のうち、11本までが、『現代史資料6 関東大震災と朝鮮人』(姜徳相/琴秉洞編、みすず書房、1963年)に収録されているものだ。この本は、虐殺研究の基本的な史料集成として有名なもので、たいていの大学図書館や地域の大型図書館には所蔵されているものだ。つまり、これらの記事は、工藤夫妻が苦労して発掘したものでも何でもない。簡単に入手できる有名な本から、まとめて書き写したものなのである。工藤夫妻は後書きで『現代史資料6』編者に謝辞まで書いている。
当然の話だが、震災研究者たちは、『現代史資料6』に収録されている記事中の「朝鮮人暴動」の記述を、事実ではなく流言を伝えるものとして読んでいる。実際、震災直後の流言記事を研究する論文も存在する(たとえば産経新聞の論説委員も務めた東海大学の山本文雄教授による「流言の二つの形態―関東大震災と二・二六事件」関西大学新文学研究、1967年など)。
本来なら工藤夫妻は、「これまで全ての研究者が流言を伝えているものと理解してきた記事を、なぜ、あなたたちだけは事実だと考えるのか」「行政機関も新聞報道も、震災からしばらく経つ頃には朝鮮人暴動の実在を否定している。そのことをどう説明するのか」という問いに答えなくてはならないはずである。最低限、それに答えなければ、「朝鮮人暴動の実在」が証明されたことにはならない。
だが工藤夫妻は、「朝鮮人暴動はホントにあった。その証拠に見ろ、震災直後の新聞にそう書いてあるじゃないか」と繰り返すだけだ。論理的に言って、「暴動は事実ではなかった。震災直後の新聞は流言を書き散らした」というこれまでの認識に対して、これは何の「反証」にもなっていない。
ただし、工藤夫妻は反証めいたものを一つだけ提示している。当時の政府が真実を隠蔽したのだ、メディアに対しても真実を書かせないようにしたのだ――というものである。次の文章では、これについて検証する。
「朝鮮人暴動」を伝える記事など、極端な混乱状況であった震災直後の新聞にしか登場しない。そんなものは流言に過ぎなかったというのが、震災からしばらく経った頃の一般的な認識だったのだ。それは10月以降の新聞や行政記録、知識人の文章などを見れば一目瞭然なのである。それは決して戦後になってGHQやら日教組やらが「捏造」した認識ではない。
ところが工藤夫妻は、混乱が続く震災直後に書かれた「朝鮮人暴動」記事だけを事実と称して抜き出しつつ、その後にそれが誤報、虚報だったと当時の人々が理解していく経緯や、その後の報道や記録についてはろくに検証しようともしない。むしろ読者の目からひた隠しにしている。あとはデマ記事に都合のいい解釈をまぶしていけば、「朝鮮人暴動」説の完成だ。これが、震災直後の流言記事を証拠に仕立てるというトリックの仕組みなのである。
しかも呆れたことに、工藤夫妻が持ち出す新聞記事を中心にした16本の「暴動の証拠」史料のうち、11本までが、『現代史資料6 関東大震災と朝鮮人』(姜徳相/琴秉洞編、みすず書房、1963年)に収録されているものだ。この本は、虐殺研究の基本的な史料集成として有名なもので、たいていの大学図書館や地域の大型図書館には所蔵されているものだ。つまり、これらの記事は、工藤夫妻が苦労して発掘したものでも何でもない。簡単に入手できる有名な本から、まとめて書き写したものなのである。工藤夫妻は後書きで『現代史資料6』編者に謝辞まで書いている。
当然の話だが、震災研究者たちは、『現代史資料6』に収録されている記事中の「朝鮮人暴動」の記述を、事実ではなく流言を伝えるものとして読んでいる。実際、震災直後の流言記事を研究する論文も存在する(たとえば産経新聞の論説委員も務めた東海大学の山本文雄教授による「流言の二つの形態―関東大震災と二・二六事件」関西大学新文学研究、1967年など)。
本来なら工藤夫妻は、「これまで全ての研究者が流言を伝えているものと理解してきた記事を、なぜ、あなたたちだけは事実だと考えるのか」「行政機関も新聞報道も、震災からしばらく経つ頃には朝鮮人暴動の実在を否定している。そのことをどう説明するのか」という問いに答えなくてはならないはずである。最低限、それに答えなければ、「朝鮮人暴動の実在」が証明されたことにはならない。
だが工藤夫妻は、「朝鮮人暴動はホントにあった。その証拠に見ろ、震災直後の新聞にそう書いてあるじゃないか」と繰り返すだけだ。論理的に言って、「暴動は事実ではなかった。震災直後の新聞は流言を書き散らした」というこれまでの認識に対して、これは何の「反証」にもなっていない。
ただし、工藤夫妻は反証めいたものを一つだけ提示している。当時の政府が真実を隠蔽したのだ、メディアに対しても真実を書かせないようにしたのだ――というものである。次の文章では、これについて検証する。
“うちのお父さんの一言”だけを根拠に「当時の政府が真実を隠蔽した」と言い張る