単なる伝聞を
「朝鮮人一団に遭遇した恐怖の体験」と強弁
………… 要点 ……………………………………………………
- 震災直後の談話記事/『現代史史料6』孫引き可能性が大
- 朝鮮人迫害の目撃以外は全て伝聞にすぎない
- 工藤夫妻は、単なる伝聞を「朝鮮人一団に遭遇」した「恐怖の体験」だと強弁している
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工藤夫妻による引用(『なかった』p.144)
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「時刻は二日の午前一時か二時頃である。徹宵して空腹と疲労を忍で日暮里の親戚を尋ねたが日暮里の半分は消滅してる。己むなく南千住から三河島に落延びた。同地方は火災はなかったが新発展地で新築家屋も建築中の家屋も将棋倒しとなっていた。私どもは三河島字町屋七二一の標札のある潰家に陣を取り休憩し、正午頃やっと食事に恵まれた。同夜十二時頃、鯨波(とき)の声がするのでビックリしたが南千住一帯を巣窟とせる鮮人団が三河島附近の煙火製造場を夜襲して火薬類を強奪し、婦女を凌辱し、食糧軍資金を掠奪するというので、在郷軍人、青年団が決死隊を組織し警戒中であると聞き、私どもは非常に恐怖し、妊婦を伴れて同夜は田圃の中に露宿して難を免れたが、仙台から青森に避難すべく日暮里に引返す途中二人の鮮人は撲殺され、一人の鮮人は電線に縛られ半死半生の体であった。また附近の墓場には扮装賎しからぬ年増婦人が鼻梁をそがれ出血甚しく、局部にも重傷を負ひ昏倒してゐたが、七八人の鮮人に輪姦されたという事で地方の青年団は極度に憤慨し、鮮人と見れば撲殺し、追撃が猛烈であった。鉄道線路は軍隊で警戒し、その通路を安全地帯とし仮小屋を建て、避難してゐるものが無数で、何れも鮮人の襲撃を恐れたためである」
――――――――――――――――――――――――――――(神田区淡路町二ノ四筑波館、山瀬甚治郎談『河北新報』大正十二年九月六日)
工藤夫妻によれば、この記事は「三河島で花火工場を襲撃した朝鮮人一団に遭遇し、その恐怖の体験を語った人物の記録」だそうである。だが、よく読めば、朝鮮人にかかわる内容のほとんどは、「というので」「と聞き」にかかっている。つまり、伝聞である。山瀬氏が確実に目撃したと思われるのは、「日暮里に引返す途中二人の鮮人は撲殺され、一人の鮮人は電線に縛られ半死半生の体であった」だけである。目撃ならぬ「聴覚」経験として在郷軍人や青年団が挙げるときの声も加えてもいいだろう。
一方、「附近の墓場には扮装賎しからぬ年増婦人が鼻梁をそがれ出血甚しく、局部にも重傷を負ひ昏倒してゐた」というのが目撃したものか伝聞なのかは微妙である。婦人を実見しているとも読めるし、説明の全てが「青年団は」にかかっている、つまり伝聞とも読める。いずれにしろ、「鮮人に輪姦されたという事で」とあるから、強姦の現場を見ていないのは確実で、朝鮮人による強姦という事実をこの記事に見出すことはできない。
つまり、この記事は、「三河島で花火工場を襲撃した朝鮮人一団に遭遇し、その恐怖の体験を語った人物の記録」ではない。見てきたとおり、実際には山瀬氏は一人の朝鮮人にも「遭遇」していない。まともに読めば分かることだ。「はじめに」でも指摘したように、工藤夫妻はこうした論法(?)を多用している。
もちろん、朝鮮人が三河島の花火工場を襲撃したなどという公式記録はもちろん、目撃証言すらも存在しない。あるのは震災直後の流言記事だけである。