このブログについて

このブログは、工藤美代子/加藤康男による「関東大震災時の朝鮮人虐殺を否定する本を検証するために、

「民族差別への抗議行動・知らせ隊+チーム1923」が作成するものです。

初めてご覧になる方は、入門編「はじめに」からお読みください。

2015年4月19日日曜日

テーマ別検証編 ◉ その1

朝鮮人が放火した?
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▶工藤夫妻の主張              

「関東大震災時の火災拡大の原因は、
朝鮮人による放火だ」


▶工藤夫妻の主張はなぜおかしいか

  • 地震後の火災の深刻な広がりが不思議だ→放火に違いない→放火なら朝鮮人だ、という根拠のない三段論法である。

  • 実際には、当時の詳細な調査で延焼の仕組みは相当分かっており、出火原因に放火は含まれていないことも分かっているが、工藤夫妻はこうした資料にさえ当たっていない。
  • 放火の罪で起訴された朝鮮人は当時、一人もいない。

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◉ 根拠も示せない「三段論法」

関東大震災では、建物の倒壊より火災の被害のほうがはるかに大きかったことはよく知られている。焼失面積は東京市で40%以上、横浜市で80%以上に達したという。火災は3日の朝まで続いた(工藤夫妻は同日夕方までと書いているが、これは誤り)。さて、工藤夫妻は、この大火災の中に朝鮮人による放火を原因とするものがかなりの割合で存在すると主張している。『関東大震災「朝鮮人虐殺」はなかった』から一部を引用してみよう。
「さて、南東方向から吹く風にしては風上にある所から思わぬ火の手が上がる、それも一日夜から二日以降になって、突然燃え始める事態に市民はようやくそれが放火によるものだと気がつく。当然、自警団は朝鮮人の放火以外に考えられないと思うようになった」(『なかった』p.151)
「二日の午後になって新しい火災が発生するということは常識では考えにくい。罹災者は避難し、その後はもはや燃えるものは燃え尽きていたはずだ」(同p.151)
   「風上に逃げたにもかかわらず、不審火の発火のため一帯が火の海と化し、落命した市民の数は知れないほど多い。/横浜で目撃されたように、朝鮮人の放火があったとされるゆえんである」(同p.153)
ちなみに、最後の引用中の「横浜で目撃されたように」とは、当ブログ中の「証拠史料編その4/舞台は東京・音羽町なのになぜか横浜とカン違い」で検証したエピソードのことを指している。これが放火の目撃証言ではないどころか、横浜の話ですらないことは「証拠史料編その4」で明らかにした。 

話を戻す。一読して分かるように、工藤夫妻は、①火災があんなに広がったのは謎だとした上で、②誰かが放火したんじゃないか、③放火なら朝鮮人の仕業に決まっている―と三段論法の主張を行っているわけである。その上、①②③とも、まともな論拠は提示されない。①については、出火原因として薬品が最も多いとされているが当時の東京はそんなに劇薬にあふれていたのか、とか、深川は運河がたくさんあったのに延焼するのはおかしい、といった程度の素朴な疑問を提示しているが、それだけならどうとでも言える話にすぎないだろう。そのうえ、②③については、例によって震災直後の流言記事以外には何の根拠も提示されていない。仮に①の「火災の拡大は謎だ」が成立したとして、自動的に③まで証明されることになるだろうか。なるわけがない。

とはいうものの、それで話を終えるのもナンなので、以下で、この①②③をそれぞれ検証してみることにする。

◉「火災拡大の原因が謎」という大間違い

最初に、①火災拡大の原因が謎だ、という主張について。 果たして工藤夫妻が言うように、関東大震災時の火災の拡大には不審な点があるのだろうか。

工藤夫妻は、火災拡大の「謎」として、「二日の午後になって(鎮火したはずの場所から)新しい火災が発生する」「南東方向から吹く風にしては風上にある所から思わぬ火の手が上がる」の2点を挙げている。だが、これはどちらも、ふつうに説明がつく事態である。

まず、鎮火した場所からまた火が出るのは「再燃火災」という、ありふれた現象である。『消防用語事典』(消防庁、1982年)には、「再燃とは、消火作業の後に残り火により家屋の一部が再び燃え上がることをいい、その火災が再燃火災である」とある。消防士の世界では、殉職、自らの宿舎からの出火と並んで、起こしてはならない出来事とされているそうである。実際、2009年には、函館市で消防署の出動で鎮火した22時間後に再燃火災が起こっている。原因は布団の中に残った種火だった。消防士でさえ、気をつけなければこのような失敗を犯すのだ。一般人が起こす再燃火災は相当な頻度に上る。

ましてや都市災害時であればなおさらだ。1995年2月7日付の日本経済新聞は、神戸大学の研究グループが行なった同年1月の阪神淡路大震災時の火災についての調査結果を報じている。それによると、阪神大震災時には、地震の2日後、3日後に再燃火災が起こったケースも多かったとのことである。この時も、再燃火災という現象を知らずに「外国人の放火だ」とする流言が出現したらしい。

◉関東大震災時、風向きは頻繁に変わった

もうひとつ、「南東方向から吹く風にしては風上にある所から思わぬ火の手が上がる」はどうか。これは誤った事実認識から来る思い違いにすぎない。というのは、9月1日から2日にかけて、ずっと南東方向から風が吹いていたわけではないからだ。それどころか、風向きは頻繁に変わったのである。関東大震災当時は、台風に近いほどの低気圧が通過中で、強風が吹き荒れていた。「しかも風向が南→西→北→南と何度も変化した」(田中哮義編『日本災害資料集 火災編第5巻』解説)のだ。それによって火災被害が拡大したことは、関東大震災を扱ったたいていの本に書かれている。

「思わぬ火の手が上がる」のは、「飛び火」によるものと説明できる。遠くから火の粉が気流に乗って飛んでくるのである。関東大震災時には、すさまじい強風もあって、この飛び火がかなり多かった。後述する「震災予防調査会報告」は、この飛び火を火災拡大の重要な要素と見ている。そのメカニズムはいまだ解明されていないようだが、専門家は「全く火源からの加熱が無視できるような環境でも火の粉を大量に含んだ気流が吹き付ければ簡単に火災拡大が起きることは現実に観測されて」いると指摘している(塚越功「関東大震災における火災」)。関東大震災時には、気流に舞い上げられた書類などが千葉県にまで降り注いだことが記録されている。

◉公式の被害者調査の存在すら知らない工藤夫妻

苦笑してしまうのは、工藤夫妻が火災の拡大が謎だと強調する先の箇所で、東京市がまとめた『東京震災録』に掲載された火災報告をとりあげて、朝鮮人の放火が出てこないからといって「他人事の役人報告以外の何ものでもない書類の典型」だと切り捨てていることだ。夫妻はどうやら、この調査が東京市の役人の手によって行なわれたのだと考えているらしい。だがそれは全くの誤りである。火災の発生と拡大の全貌を調べたのは東京市の役人ではなく、文部省の震災予防調査会であり、そこに集った当代随一の専門家たちである。関東大震災についてかつてない新説を世に問うのであれば、その程度のことは知っておいてほしいものである。

震災予防調査会は、1891年に設立された文部省所轄の研究機関である。震災の翌年に設立される地震研究所の前身だ。関東大震災の調査報告は、巨大地震発生を警告していたことで有名な東京帝国大学の今村明恒助教授を責任者にすえ、警視庁で一貫して消防畑を歩んだ緒方惟一郎、内務省の井上一之、東京帝大名誉教授で物理学者の中村清二、同じく物理学者の寺田寅彦など、当時としては最高峰の専門家・科学者を結集したチームが、1年半の時間をかけてまとめたものである。

とくに中村清二による調査は徹底したものだった。彼は東京帝大の学生たちを動員して焼失地域全域の被災者に聞き取り調査を行い、火がどのように発生し、どの方向に延焼していったかを解明したのである。これにもとづいて作成された「東京市火災動態地図」は今でも、都市防火研究の貴重な資料として活用されている。もちろん、その細部の正確さには時代的な制約も含め、限界もあるだろうが、全体的には今に至るも関東大震災時の火災についての最も信頼のおける報告として認められているのである。

◉「鮮人放火に関する流言の内容が如何に無稽なりしか」

ではこの調査報告で、都心をなめつくした震災時3日間の延焼において、「放火」がどれだけの比重を占めたと書かれているだろうか。答えは「ゼロ」である。当時の最高峰の科学者たちが、公式調査報告において、関東大震災時の火災の拡大は「放火」によるものではない―と結論を出しているのである。ところが工藤夫妻は、その調査報告の存在すら知らないのだ。

これが工藤夫妻の主張する、②誰かが放火したんじゃないか―に対する答えだ。ここからはこの②と、合わせて③放火なら朝鮮人だ―についても検証してみよう。

関東大震災期に放火そのものがなかったわけではない。警視庁『大正大震火災誌』によれば、警視庁管内だけで9月中に25件の放火があった。前年同期の5倍であるという。この25件の火災について同書は、「災後の人心の動揺と警戒の不備とに乗じ、平素の怨恨を晴さんとするものを以て其の多数を占め、其他或は悪戯」が多かったと書いており、政治的、組織的な犯行は認めていない。実際、当時の記録や報道には、使用人が主家の物置に火をつけたとか、放火犯を捕まえてみたら10代の少女だったといった類の話も散見されるから、警視庁の総括は納得がいくものだ。

さらに、『大正大震火災誌』はこれに続けて、
「当時世上にては不逞鮮人放火の流言頻りに伝播せられしかども九月中に検挙せる放火犯人中、鮮人は僅かに軽微なる未遂罪二件を算するのみにして、其他は皆内地人なりしに徴せば、鮮人放火に関する流言の内容が如何に無稽なりしかを推察するに足らん」
と記している。放火で起訴された朝鮮人は存在しない(注)ので、この未遂罪2件も不起訴だったということになる。あまりに証拠が薄弱だったのだろう。震災直後、無数の朝鮮人が放火や井戸への投毒の疑いをかけられて警察に連れて来られ、取り調べを受けている。その結果が「軽微なる未遂罪二件」だけ、しかもそれさえ起訴に耐えうるものではなかったということの意味を、よくよく考えるべきだろう。

◉放火による延焼自体が「件数ゼロ」

また、司法省の報告書(「震災後に於ける刑事事犯及之に関連する事項調査書」)中の出火リストには8件の放火が記されている。そのうち3件で犯人が「氏名不詳の朝鮮人」とされている。そして例によって、彼らはその場で殺されていたり、行方不明だったりする。『20分でわかる「虐殺否定論」のウソ・その6/「悪いことをした朝鮮人もいた」のか』 で触れたように、司法省の報告書が、朝鮮人の犯罪を不確かなものも含めて強調しようという目的をもっていたことを考えれば、これを朝鮮人が実際に放火を行った証拠として扱うのは早計だろう。その上で、この報告書でさえも、この3件を含めて「其の大部分は直に消止めらる」「火災原因(延焼原因の意)の放火に出づるものは一も存在せず」としているのである。つまり、放火による延焼はなかったということだ。

当時予想もされていなかった大規模な都市火災が発生したのであるから、その出火原因や全貌が100%解明されたとすれば、その方が不思議である。だが少なくとも、工藤夫妻が描くような組織的で広範囲にわたる放火が存在しなかったことだけは、こうした史料を読めば明らかだ。この時期、放火の罪で逮捕された日本人の実名入りの新聞記事はいくつも残っているが、先述のように、放火の罪で起訴された朝鮮人は一人もいない。工藤夫妻の言うような、朝鮮人の放火によって多くの人が命を落としたという主張が成り立つ余地は全くないのである。

◉残る根拠は “震災直後の流言記事” だけ

工藤夫妻の手元に残るのは、結局、例によって震災直後の新聞記事のみである。「朝鮮人の放火」を証明するため、工藤夫妻が登場させている新聞記事は3つ。「証拠史料編」でとりあげた「その8」、「その9」、「その10」がそれにあたる。くわしくは該当記事の箇所をみて頂ければと思うが、一言で言えば、どの記事も、その後の公的な記録(所轄警察署の報告等)などによって、内容の事実性が否定されているものだ。もちろん、公式記録の方が間違っていると主張することも可能だが、それならそのための論証手続きを踏むべきだろう。だが、ここでも工藤夫妻は、記事に書いてあるから事実だと主張するだけだ。「その10」などは、朝鮮人を拷問したら放火を自白したという談話記事である。そういうものに証拠能力があると考える神経が分からない。皆さんはどんな拷問を受けても虚偽の自白をしない自信があるだろうか。

繰り返すが、震災直後の混乱期の記事を証拠採用するのであれば、記事そのものとは別に、記事内容の事実性を裏づける作業が必要だ。工藤夫妻が証拠として列挙した記事について言えば、今のところ、裏付けどころかそれらの事実性を否定する材料しかない。

朝鮮人の大規模な放火があった、関東大震災の火災被害の大きな部分が、朝鮮人の放火によるものだ―工藤夫妻のこんな主張は、まったく成り立つ余地がない。妄想としか言いようがないのである。

(注)司法省作成による「震災後に於ける刑事事犯及之に関連する事項調査書」、「鮮人問題に関する『ステートメント』」による。いずれも姜徳相/琴秉洞編『現代史資料6 関東大震災と朝鮮人』(みすず書房)収録。当サイト内の『20分でわかる「虐殺否定論」のウソ・その6/「悪いことをした朝鮮人もいた」のか』も参照のこと。

参考文献
  • 田中哮義編『日本災害資料集 火災編第5巻 震災予防調査会報告』クレス出版、2013年
  • 塚越功「関東大震災における火災」(「建築防災」2000年9月号)
  • 広報ぼうさい「1923(大正12)年関東大震災 火災被害の実態と特徴」  →PDF
  • 内閣府中央防災会議専門調査会「1923関東大震災 第一編」(2006年)「第5章 火災被害の実態と特徴」 →PDF
  • 姜徳相/琴秉洞編『現代史資料6 関東大震災と朝鮮人』みすず書房、1963年

2015年4月18日土曜日

テーマ別検証編 ◉ その2

「誰」が暴動を行ったというのか?(前編)

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▶工藤夫妻の主張              

「朝鮮人抗日テロリストと日本人社会主義者が、
暴動を行った」


▶工藤夫妻の主張はなぜおかしいか

  • 震災後に、震災を受けて起きた出来事を、時間をさかのぼって「震災時の暴動の証拠」に仕立てている。 
  • 出典元を示しながら、そこに全く書かれていないことを書いている。 
  • 結局、唯一の「証拠」は「朝鮮人を拷問したら自白した」という震災直後の新聞記事のみ。

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◉ 抗日テロ組織と社会主義者が暴動計画?

工藤夫妻は『なかった』で、震災直後の新聞記事を並べては「ほら見ろ、朝鮮人の暴動があったとここに書いてあるじゃないか。だからあったんだ」というだけのことを繰り返し主張しているわけだが、それではいったい、どんな朝鮮人が、どんな組織が暴動を行ったと考えているのだろうか。

それを明らかにしているのが『なかった』の最後に置かれた第7章なのだが、この章は、それまでの各章以上に読み進めるのが苦痛になる内容である。論理の混濁がひどいのだ。

工藤夫妻によれば、暴動の主体は、上海に置かれた独立派の亡命政府「上海臨時政府」と「地下水脈で通じていたテロ集団」(抗日テロ組織「義烈団」がその筆頭だとしている)であるという。もともと彼らは、10月に予定されていた摂政宮(後の昭和天皇)の結婚式当日に合わせた暴動を計画していたが、9月1日に予期せぬ大地震が起こったことから計画を変更。即座にこれに便乗して暴動を開始した――のだそうだ。そして、どうも記述があいまいではっきりしないのだが、ソ連や日本の社会主義者たちがそれを支援していたと言いたいようだ。「社会主義者との結託」という小見出しも立てられている。

さて、この主張を成立させるために工藤夫妻が提示している論拠は以下の4つである。①「朴烈事件」があったという事実、②中国に拠点を置く朝鮮人抗日テロ組織「義烈団」などの震災直後の動きを記した特高文書の存在、③『朝鮮民族独立運動秘史』の記述、④「朝鮮人暴動」を伝える震災直後の新聞記事。

最初に、①と②をそれぞれ取り上げよう。

◉ 朴烈事件が「朝鮮人暴動」の証拠になる論理が意味不明

①の朴烈事件とは、アナキストの朴烈と金子文子らが爆弾を入手すべく画策していたが、震災直後の9月3日に検挙され、取調べに対して爆弾入手計画を供述したという事件である。ちなみに、逮捕そのものは爆弾計画に対してなされたのではない。震災直後、「保護検束」の名目で朝鮮人や日本人社会主義者の検束が各地で行なわれたが、朴烈の検挙もそうしたものの一つだった。検束後の取り調べの中で計画が明らかになったのである。この計画に何らかの意味で参加していたといえるのは、朴烈・文子と金重漢の3人。彼らが爆弾を入手しようと義烈団の周辺の人物(ソウル在住)に接触したのは事実だが、結局、入手できずに終わった。念のために言っておけば、震災よりずっと前の話である。

さらにその計画は「現実性や具体性に欠けたものであった」(小松隆二・慶応大学教授、『現代史資料3 アナーキズム』みすず書房、1988年)というのが定説だ。天皇や大官たちを爆殺することを目的にしていたと「供述した」ことで、朴と金子は大逆罪で有罪判決を受ける(後に恩赦)が、この供述内容自体が取り調べのなかで誘導されて「でっち上げられた」ものと見る研究者が多い(「朴烈」「世界大百科事典」平凡社)。いずれにしろ彼らは、爆弾を入手しようと「考えた」だけで有罪とされたのである。

この事件をどう評価するかはともかく、これがどうして朝鮮人テログループが震災時に東京で暴動を「起こした」証拠になるのか、皆さんには理解できるだろうか。私にはさっぱり分からない。ここにあるのは、3人程度の活動家集団が、震災以前から爆弾を入手しようとしていたが、入手できないうちに9月3日に検束されたという事実だけである。

朴烈事件そのものはよく知られた事件である。裁判記録や当事者の回想の類も多く残っている。この事件を震災時の「朝鮮人暴動」の実在に結び付けたいのであれば、つまり、彼らの夢想が数人だけのものではなく、より大きなテロ計画の一環であったと主張したいのであれば、それを論証する必要があるが、工藤夫妻はそうした作業をまったく行っていない。そもそも工藤夫妻がそう主張したいのかどうかもよくわからない。どうも“天皇を爆殺したいと考えた朝鮮人が3人は存在した”事実自体が、関東大震災時の朝鮮人暴動を立証していると考えているような節もある。

ちなみに、関東大震災の2ヵ月後にまとめられた司法省の報告も、朴烈事件について「震災直後に検束を受けたるを以て震災後に於ける犯罪には直接の関係なきこと明なりとす」として、「朝鮮人暴動流言」との関係を否定している。

◉ 史料原文を次々に誤読する工藤夫妻 

次に②、中国に拠点を置く朝鮮人抗日テロ組織「義烈団」などの震災直後の動きを記した特高文書の存在だが、これも例によって『現代史資料6』に収録されている朝鮮総督府警務局文書の孫引きである。工藤夫妻はそこから、(ア)義烈団のリーダー、金元鳳が震災から9日後の9月9日、震災後の混乱を好機と考えて「部下を集めて天津から東京に向かわせたとの報告が上がっている」(『なかった』)、(イ)同じく義烈団が「保管していた爆弾50個を安東(注・韓国慶尚北道の日本海に近い都市〈工藤夫妻による注〉)に向け発送したという情報が警務局に届いていた」(同)、(ウ)さらに同じく義烈団が9月19日、決死隊員の選抜のための儀式などを行った―という情報を列記する。

だがここにはいくつもの原文の誤読が見られる。

まず、(ア)だが、『現代史資料6』に収録されている警務局資料には、金元鳳が「部下を集めて天津から東京に向かわせた」などとは書いていない。「部下を鮮内(朝鮮内部)に派送」するための「手配を定めた」(『現代史資料6』p.522)とあるだけである。東京ではなく、朝鮮、しかも「向かわせた」ではなく、「手配を定めた」のである。当時、義烈団にとっては、団員を朝鮮内部に派遣するだけでも困難を極めたのであり、ましてや団員を東京に自由に派遣するような力量はなかった。そのことは、本稿の「後編」で詳しく書く。

◉ “50本入りのタバコ大の爆弾”という原文を“爆弾50個”と読む

次に(イ)だが、「爆弾50個を安東(注・韓国慶尚北道の日本海に近い都市)に向け発送したという情報」というのは完全に原文の誤読、それも噴飯ものの誤読である。原文には「爆弾50個」など出てこない。「該爆弾は五拾本入の巻莨缶大のもの」とあるだけだ。現代語訳すると、「この爆弾は50本入りの巻きタバコ缶くらいの大きさ」となる。つまり、“巻きタバコ50本が入っている缶詰”くらいの大きさの爆弾が1個である。50個の爆弾ではない。さらに苦笑するしかないのが「安東(注・韓国慶尚北道の日本海に近い都市)」という下りだ。「安東」に「韓国慶尚北道の日本海に近い都市」と注を添えたのは工藤夫妻だが、原文に登場するのは「安東県」であって韓国慶尚北道の安東ではない。安東県とは、現在の中国の都市、丹東市である。北朝鮮の新義州と鴨緑江を挟んで向き合う国境の都市であり、朝鮮領ではない。当時は日本が中国から租借し、「関東庁」として統治していた地域だ。義烈団は、朝鮮に入る玄関先にあたるこの都市にアジトをもっていた。そもそも、慶尚北道の安東も「日本海に近い都市」ではない。海からは40キロも離れている。東京湾から内奥に40キロ入った埼玉県大宮市を「太平洋に近い都市」と言うだろうか。おそらく、「日本海から船を出して日本に『50個の爆弾』を運ぼうとしたのだな」と読者に連想させたかったのかもしれないが、あまりに無理がある。

そもそも念のために言っておけば、原文も、朝鮮総督府の警務局が“そうした情報をキャッチした”というものであって、実際にそうしたことがあったかどうかは分かっていない。

いずれにしろ、震災を日本政府攻撃の好機と捉えた中国在留の朝鮮人抗日組織が震災後にテロを画策していた(かもしれない)という話である。繰り返すが、特高情報に記述されているのは“震災後”の動きである。まさか震災の報を受けて9月19日に中国で選抜された決死隊員が、9月1日の東京にタイムスリップしたとでもいうのであろうか。

 長くなった。③の検証に移ろう。

◉抗日組織各分派が摂政宮をテロの目標として準備していた?

 ③は、独立運動各派のテロ活動について言及した『朝鮮民族独立運動秘史』の記述である。工藤夫妻は、以下のように書いている。 
「ところで、こうした上海仮政府と地下水脈で通じていたテロ集団にも、路線をめぐる党派争いがあった。/その結果、集団はいくつかの分派に分裂しながら、個々にテロ計画を練って日本内地襲撃を狙っていたものと考えられる。だが、いずれの分派も目標日の第一は摂政宮の御成婚当日、それも摂政宮そのものを目標としていた。ところが分派それぞれの事情から、資金や実行部隊の確保、逃走ルートの確認等の準備がばらばらで統一を欠いていた(『朝鮮民族独立運動秘史』)」  (『なかった』p.336) 
「上海仮政府」とは、上海に拠点をおいた朝鮮独立派の「上海臨時政府」を指す。さて、上の記述によれば、工藤夫妻は、抗日テロ集団各派の「ご成婚式」襲撃計画の準備状況について、『朝鮮民族独立運動秘史』という本に依拠して書いているらしい。この書名は、『なかった』の巻末資料一覧にも掲載されている。そこには「坪江豊吉『朝鮮民族独立運動秘史』巌南書店、1954年」と書かれている。

そもそもこの書名、著者名からして間違っている。まず、著者名は坪江豊吉ではなく坪江汕二。豊吉は確かに坪江氏の本名だが、この本の著者名としては汕二を使っている。さらに、版元も発行年も間違っている。最初に出たのが日刊労働通信社で1959年、再刊されたのは巌南堂書店で1966年だ。

◉ 出典を示しながら、実際にはそこに書かれていないことを主張

『朝鮮民族独立運動秘史』(以下、『秘史』)は、朝鮮総督府で警務官僚を務めた坪江氏が戦後に書いたもので、治安官僚が蓄積した資料に基づいて、韓国併合後の朝鮮独立運動の歴史をまとめたものだ。日本の治安官僚の視点から書かれているとはいえ、朝鮮独立運動の重要な資料であることは間違いない。

さて工藤夫妻は、上記の文章で、この本を出典元として、「資金や実行部隊の確保、逃走ルートの確認等の準備がばらばらで統一を欠いていた」などと具体的に、東京暴動に向かって準備を進めるテロ組織各派の動向を描き出している。だが本当にそんなことが『秘史』に書いてあるのだろうか。事実ならそれ自体が驚くべきことである。

だが実際には、『秘史』にはそんなことは全く書いていない。関東大震災に言及しているのは一箇所だけで、その内容は「関東大震災の報道は、とくにかれら(中国の朝鮮人抗日組織各派)に誇大に伝えられ、これを契機として日本の国力の後退を夢想し、運動戦線の統一と強化をはかろうとする気運が強まっていった」という一文ですべてである。工藤夫妻が書いている「(分派)個々にテロ計画を練って日本内地襲撃を狙っていた」「いずれの分派も目標日の第一は摂政宮」「ところが分派それぞれの事情から、資金や実行部隊の確保、逃走ルートの確認等の準備がばらばらで統一を欠いていた」などに対応する記述は、『秘史』のほかの箇所にも全く存在しない。

工藤夫妻が書いている内容で、『秘史』の内容と合致しているとかろうじて言えるのは、中国の朝鮮人抗日組織にも「路線をめぐる党派争いがあった」という部分だけである。確かに中国に拠点を持つ朝鮮人抗日組織は、さまざまな分派に分かれていた。だがその分派各派がそれぞれに来日して東京に結集し、テロを準備したなどという記述は、『秘史』には存在しない。夫妻は、参照先として『秘史』を明示しながら、そこに全く書かれていないことを無根拠に書き連ねているのだ。

『なかった』において、工藤夫妻は、“朝鮮人テロ集団はいくつかの分派に分かれて東京でテロを行った”と繰り返し断言している。その唯一の根拠が示されているのが、『秘史』にそう書いてある、と主張するこの部分の記述なのである。

こうなると、残る「証拠」は④、例によって震災直後、混乱期の記事だけということになる。だが、この時期の新聞が伝える「朝鮮人暴動」記事が流言を伝えたものにすぎないことについては、すでに「証拠史料編」などで繰り返し説明したとおりである。

◉ 実在の根拠を一つも示せない「朝鮮人暴動」は工藤夫妻の空想 

以上、「暴動を行ったのは朝鮮人抗日テロリストと日本人社会主義者だ」という工藤夫妻の主張がまったく成立しないことを、彼らが挙げている根拠の検証を通じて明らかにしてきた。4つの論拠のすべてが、そもそも根拠になっていないのだ。要するに、「朝鮮人暴動」をめぐるあれこれの記述は、全て工藤夫妻の空想にすぎないと考えるほかない。

さて、続く「後編」(近日公開)ではこの問題を違う角度から検証してみる。すなわち、工藤夫妻がテロの主体として挙げている諸集団に、果たしてその「能力」があったのか、という視点である。前編ではふれなかった日本人社会主義者の問題もそちらで扱うことになる。それを通じて、工藤夫妻の主張がどれほど荒唐無稽なのかが分かるだろう。

2015年4月17日金曜日

テーマ別検証 ◉ その3


「誰」が暴動を行ったというのか?(後編)

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▶工藤夫妻の主張              

「朝鮮人抗日テロリストと日本人社会主義者が、
暴動を行った」


▶工藤夫妻の主張はなぜおかしいか

  • 中国に拠点を持つ抗日テロ集団「義烈団」団員はたったの70人。日本潜入の能力もなし。
  • 日本に住む朝鮮人の多くを占めていた労働者には政治的意識なく組織もなし。留学生は徹底的な監視下にあった。
  • 震災前、日本本土での朝鮮独立派のテロは個人テロが1件と未遂が1件だけ。
  • 日本人社会主義者にはテロの能力も意図もなし。

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◉ 抗日テロ組織「義烈団」はたったの70人

前編では、工藤夫妻が、朝鮮人抗日テロリストと日本人社会主義者が暴動を行った証拠としてあげている4つの論拠が、ことごとく論拠として成立していないことを明らかにした。後編では、工藤夫妻の主張を別の角度から検証する。“彼らが実行部隊として列挙している朝鮮人テロリスト集団や日本人社会主義者に、そもそも大規模な暴動やテロを東京で行う「能力」があったのか”という点である。検証の目的は、“工藤夫妻がいかに荒唐無稽な主張をしているか”を示すことである。

工藤美代子名で出された「旧版」、『関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実』の後書きでは、テロの主体について「いわずもがな、義烈団である」と断言していた。加藤康男名の「新版」『なかった』のあとがきではこの部分が消えてしまったが、本文の主張はほとんど変えていないので、工藤夫妻がテロ実行犯の筆頭に義烈団を想定しているのは変らないはずだ。

義烈団は、中国に根拠地をもつ朝鮮独立派のテロ組織である。1919年に結成され、震災の起きた23年時点までに中国や朝鮮で多くのテロ(要人暗殺や重要施設への爆弾攻撃)を行っている、最も戦闘的なテロ集団であった。しかしその彼らにも、東京で大規模なテロや暴動を起こす能力はなかった。なぜか。

第一に、人数が絶対的に足りない。義烈団は少数精鋭の組織である。結成時の人数は17人。特高資料が伝えるところでは、震災翌年の24年の段階でも70人程度(梶村秀樹「義烈団と金元鳳」『朝鮮近代の民衆運動』、明石書店93年)。そのほとんどは中国に分散して潜伏していた。

◉ 日本本土への潜入は極度に困難だった

第二に、日本本土に入ることの難しさである。中国から朝鮮に潜入してのテロですら、成功したものより失敗したものの方がはるかに多い。戦後すぐに、リーダーの金元鳳に聞き取って書かれた朴泰遠『金若山と義烈団』(皓星社)によれば、「日帝の(中朝)国境警戒がはなはだ厳しく、単身でも出入りがきわめて困難」だったからである。ましてや日本本土への潜入の困難は想像を超える。

義烈団が日本本土で行ったテロは、震災の翌年の「二重橋事件」だけである。これは、義烈団メンバー1人が皇居の二重橋に手製の爆弾二つを投げ込んだが不発に終わった(その場で取り押さえられた)―というものだ。このメンバーが日本潜入を同志たちに提起したとき、「とうてい不可能なことだ」と反対された(前掲書)ことで分かるとおり、この程度のことでさえ、東京に潜入して実行するのは難しかった。現にこのときも事前に情報がもれており、港には厳重な警戒網が敷かれていた。彼は石炭船の底に潜んでようやく日本にたどり着いたのである(『警視庁史 大正編』)。ちなみにこの爆弾攻撃の目的は、“関東大震災時の朝鮮人虐殺への報復”であり、“朝鮮支配の過酷さを日本の民衆に知らせること”だった。

こうした状況を見れば、義烈団が数百人規模の部隊を送り込んで東京を火の海にするなど、考えられないことだと分かるだろう(そんなことが可能な力量があれば、彼らはその力を朝鮮内部での蜂起に使ったに違いない)。そして、義烈団にすら無理なことは、当時の朝鮮人抗日組織には無理だろう。

ちなみに工藤夫妻は、“義烈団は上海臨時政府(独立派の亡命政府)の「裏の顔」だった”などと書いているが、これは大間違いである。義烈団はそもそも、三一独立運動後に上海臨時政府に集まる独立運動家たちが、諸外国に外交的に働きかけることで朝鮮独立を目指すという路線を選び始めたとき、これに反発して結成された組織だ。上海臨時政府とは、1930年代に至って大同団結が叫ばれるようになるまでは、一貫して距離をおいている。上海臨時政府幹部の金九などは「義烈団は、臨時政府を目の上のこぶのように忌み嫌っていた連中で、臨時政府の解消を猛烈に主張した」(金九『白凡逸志』東洋文庫)とまで書いているのである。

◉ 朝鮮人労働者は政治に無関心

中国に拠点をもつ義烈団にテロの能力がないのであれば、すでに日本に在留している朝鮮人労働者や留学生たちはどうか。

当時、日本に在留していた朝鮮人は、少なめな数字を出している内務省警保局の統計でも8万人以上にのぼるが、その多くは単純労働に従事する肉体労働者たちだった。そして、内務省警保局(特高警察トップ)が1925年1月にまとめた『最近ニ於ケル在留朝鮮人ノ情況』(萩野富士夫編『特高警察関係資料集成』12巻収録)では、彼らについて「無学文盲の者其の多数を占め政治上及び社会上の思想に全く無関心」としている。左傾化した留学生の働きかけによって労働運動の萌芽も生まれつつあったが、日本の労働組合が開催するメーデーに参加する者が留学生も含めてせいぜい30人程度。彼らのなかから数百人規模のテロ組織が現れるとは考えにくい。

では約3000人いた留学生はどうか。震災の前年、留学生によって初の社会運動団体「黒涛会」が結成されている。黒涛会はすぐに共産主義派と無政府主義派に分裂した。このうち共産主義派(北星会)について言えば、この時点ではほとんど研究サークルのレベルにすぎないものだった。その上、震災の3ヶ月前、23年5月には、彼らは大挙して朝鮮に帰郷している(日本に残ったのは7人だけ)。朝鮮本土での運動に転進したのである。彼らが中心となって朝鮮共産党が結成されるのは1925年のことだ。

◉ 日本在住の朝鮮人知識人は徹底的に監視されていた

もう一方の無政府主義派も、わずか十数人。「摂政宮(後の昭和天皇)暗殺のために爆弾入手計画を進めていた」として大逆罪に問われた朴烈はその中心だった。だがこちらも本格的な運動組織があったわけではなく、例の大逆罪でも、起訴されたのは朴烈と金子文子の二人だけだ。仮に二人の供述がすべて本当だとしても、逮捕時点で彼らは爆弾を入手していないし、とてもではないが工藤夫妻の主張するような、帝都を火の海にする数百人のテロリストの中核となりうるものではない。

そもそも、当時の朝鮮人知識人・学生への監視は徹底しており、日常的に尾行をつけられる「要視察朝鮮人」だけで268人(22年末)に上っている。朴烈にも2、3人の尾行が常についていた。268人を留学生3000人にあてはめれば、11人に1人である。めぼしい者はすべて監視されていたわけで、大規模な地下活動など不可能であった。これは日本人社会主義者への監視についても同じことが言える。当時の特高警察は、世界でも最高水準の監視体制を築いていると自認していた(荻野富士夫『特高警察』岩波新書、2012年)。

ちなみに、先述の内務省警保局文書は内部向けの秘密文書だが、言うまでもなく、「関東大震災時に朝鮮人暴動があった」などとは一言も書いていない。震災時の虐殺については、「朝鮮人に対する不祥事件」があったとだけ表現している。「朝鮮人に対する」である。念のため。

◉ 日本本土で朝鮮人抗日派のテロが頻発していたというウソ

また、工藤夫妻は、関東大震災前には日本本土で朝鮮人抗日組織によるテロやテロ未遂が頻発していたかのような印象を読者に与えようとしているが、それは事実ではない。震災以前に日本本土で行われた朝鮮独立思想に基づくテロは、たったの2件だけである。1件は、1920年の李垠(李王世子)暗殺未遂事件。工藤夫妻の本で引用されている震災前の記事のうち、爆弾が登場する2つ(p.121、p.122)は、この事件に関連するものだ。もう1件は21年の対日協力者・閔元植暗殺事件(刺殺)である。両方とも組織的なものではなく、個人によるテロであり、内容も要人に対するテロであって、工藤夫妻が空想しているような組織的で大規模な無差別テロではない。

震災後も、日本本土での朝鮮人による抗日テロは、24年の義烈団による二重橋事件(前述)、32年の桜田門事件(天皇の車列に手榴弾を投擲)を数えるのみである。1910年の韓国併合から1945年の日本の敗戦までの35年間に、日本本土で行われた朝鮮人抗日テロ(未遂含む)は、「考えただけ」だった朴烈の事件を加えたとしても、5件にすぎないのである。日本本土でテロを行うことがどれほど難しかったのか、これだけでもよく分かる。

◉ 震災前に潰滅していた日本共産党

日本人社会主義者はどうだろうか。当時、日本の反体制左翼の陣営もボル(ボルシェビキ、共産主義)派とアナ(アナキスト、無政府主義)派に分かれて対立していた。ボル派の中核となるのは、当時は結成そのものが違法であった共産党(第1次共産党)だが、震災の2ヶ月前、23年7月の摘発で、ほとんどの幹部が投獄され、残りはソ連に亡命した。ヒラの党員も、そのほとんどが逮捕された(立花隆『日本共産党の研究』によれば当時の党員数は約100人)。徹底的な壊滅である。つまり彼らの主だったメンバーは9月1日の時点で獄中におり、「数百人規模のテロリスト」を生み出す規模も能力もなかった。

地下組織のはずなのに、第1次共産党の幹部たちはほとんど、名の知れわたった知識人や昔からの有名な活動家で占められていた。つまり、警察には彼らの動向は筒抜けで、大規模な秘密行動など不可能な組織だったのである。

そもそも共産党がこの当時、大規模なテロや武装蜂起を意図すること自体がありえない。震災の前年、コミンテルンが共産党に与えた綱領(基本方針)草案は、平たく言えば、当面は地道に労働運動などをがんばれ、という内容であった(村田洋一編『コミンテルン資料集2』大月書店、1980年)。マルクス・レーニン主義者にとって綱領は絶対であり、思いつきでそれに反した行動をとることはありえない。地震が起きたからと言って突然、大規模なテロや武装蜂起を行うはずがないのだ。

◉ 人数も少なく組織も持たないアナキスト

一方のアナ派の人数規模は共産党よりさらに小さい。団結よりも自由な連帯を志向するその思想からも、激情から個人テロに走る者はいても、地下活動を担える統一した鉄の規律をもつ組織には縁遠かった。そうしたものをつくる意図もなかっただろう。彼らが抱く革命のビジョンは「アナルコ・サンジカリズム」と呼ばれるもので、選挙や武装闘争ではなく、労働者がゼネスト(すべての産業での一斉ストライキ)を行うことで資本主義を止めるというものだった。その実、アナキズムの影響下にある労働組合は小規模なものだった。

そもそも、この時期に共産主義者やアナキストとして活動していた人で、その後、政治家や文化人、実業家として活躍した著名人は少なくない。多くの人が回顧録の類を残している。だが当然ながら、その中には「関東大震災時に自分の組織はテロをやった」「自分は暴動に参加した」という証言はひとつもない。

日本近代史についてある程度の一般知識があれば、その頃の左翼運動について多くの人の名前が浮かぶだろう。アナキストの大杉栄や伊藤野枝、共産主義者の山川均、堺利彦、荒畑寒村、これに新人会や建設者同盟の学生たちとして宮崎龍介(柳原白蓮の夫)や麻生久、浅沼稲次郎(後の日本社会党書記長)などを加えてもいい。これらのうち、いったい誰が、夜陰に乗じて庶民の家の井戸に毒を入れたり、火を放ってまわったりしたというのか。具体的に考えればすぐにバカバカしい話だと思い至る。

◉近代史への無知に基づく妄想

工藤夫妻は、『なかった』p.338で、“ロシアや中国と日本を自在に行き来できるとは朝鮮人パルチザンの実力は並大抵ではない、社会主義者の支援があったに違いない”などとトンチンカンなことを書いている。だが義烈団の項で書いたように、実際には誰も“自在に行き来”などできなかった。日本人社会主義者にもそれを手引きする能力などなかった。そもそも、当時の日本人社会主義者に、朝鮮独立派と連帯して事を為そうという志向性が希薄だったことは、多くの研究を通じて指摘されている。

以上のように検証してみれば、震災に乗じて大規模なテロを行おうとした集団どころか、その「能力を持つ」集団さえ、朝鮮人や日本人社会主義者の中には存在しなかったことが分かる。朝鮮人の中にも日本人の中にも、「数百人規模のテロ部隊」を動員できる勢力など一つもなかった。結局、「関東大震災時に朝鮮人と社会主義者が暴動を起こした」という主張そのものが、朝鮮や日本の近代史、そして当時の社会主義運動、民族独立運動へのひどい無知の上に成り立っているのだ。完全に妄想である。

そもそも、9月1日に地震が発生したときに、それ以前からテロ・暴動を計画していた人々が急遽予定変更して混乱に乗じて各地でテロを行った―などという話をどうしてまともに信じられるのだろうか。火災が予想もつかないほどに拡大し、誰も彼もが逃げ惑っているときに、彼らはどうやって互いに連絡を取り、どうやって集まり、激変する状況に応じた新しい作戦を立て、指揮命令を伝達していたのか。当時でさえ、そんな話はばかばかしいと笑った人は大勢いたのに、90年後の今、それを真顔で主張し、それを本にして出す新聞社(産経新聞出版。工藤美代子による「旧版」の版元)があり、それを読んで信じる人々がいるとは、それこそ信じられない話である。

2015年2月25日水曜日

証拠史料編 ◉ はじめに

【「証拠史料」編―工藤夫妻の示す「証拠」史料を検証する】


「証拠史料」編の読み方

「証拠史料」編では、工藤夫妻が「朝鮮人暴動」が実在した証拠を示す意味で行っている史料引用について、そのひとつひとつを取り上げて検証する。俎上に上げるのは、工藤夫妻が著書の中で行っている多くの引用のうち、「暴動の証拠」という文脈で登場する16本と、そういうわけではないがあまりにひどい史料の扱いなのでぜひ皆さんに紹介したい特別編1本の計17本である。検証のポイントは二つ。「この史料が本当に朝鮮人暴動の実在の証拠になっているか」という点と、工藤夫妻の史料の読み方・読ませ方・扱い方に問題はないか、という点である。

工藤夫妻による「証拠」史料引用の第一の問題は、そのほとんどが、情報が錯綜していた震災直後の新聞記事であるということである。16本中12本がこの時期のものだ。

震災直後には誤報、虚報が氾濫したこと、分けても朝鮮人暴動記事については流言をそのまま書いたものにすぎないという評価が震災から数ヵ月後には常識となり、その後もそれが定着していることについては、当サイトの「震災直後の新聞のデタラメ 」や「入門編 ◉ トリックその1 誤報・虚報が横行した震災直後の新聞記事を『証拠』に仕立てる」ですでに指摘した。ところが工藤夫妻は、記事の内容を額面通りの事実として論を進めている。

混乱が過ぎ去った後に書かれた報道、証言、行政の記録に照らせば、それらの記事に描かれている「朝鮮人暴動」が流言にすぎなかったことは自明である。ところが工藤夫妻は、そうした後の記録とつき合わせて震災直後の記事の事実性を検証しようとはしていない。

なぜ、混乱期の記事だけに固執するのだろうか。たとえ話をすれば、1994年の松本サリン事件の真相を追究すると称する人が、なぜか、誤った犯人視報道であふれた94年の記事だけを証拠として扱い、地下鉄サリン事件があった95年以降の記事や記録には一切ふれないようなものである。その底意を疑われても仕方ないだろう。

そこで私たちは、この「証拠史料」編で、工藤夫妻が引用するひとつひとつの史料について、いくつかの視点から検証を行ってみようと思う。

第一の視点は、工藤夫妻が「暴動の証拠」として掲げる史料の内容が、後の行政記録や報道などとつき合わせてみて、暴動の証拠という意味でどれだけの信憑性をもちうるかを検証するというものだ。

その視点からの検証を中心に行っているのが、「証拠史料編 ◉ その1」である。

第二の視点は、史料の内容そのものではなく、工藤夫妻によるその読み方、読ませ方、扱い方を検証するものだ。

工藤夫妻の史料の読み方にはおかしな部分がたくさんあるが、そのパターンは3つある。

その一つのパターンは、「朝鮮人が襲ってくる」といった「伝聞」を語っているだけの談話記事や手記を、朝鮮人暴動の目撃証言であるかのように扱うことである。 “流言にあわてふためいたが、結局、1人の朝鮮人さえ見ることもなく終わった”という類の内容を、“幸いにも朝鮮人に攻撃されずにすんだ”エピソードとして朝鮮人暴動の証拠として掲げるという、呆れかえるようなことさえしている。

たとえば「証拠史料編 ◉ その7」がその代表例である。

もう一つのパターンは、原文の一部を不自然に切り取ることで原文が伝える内容を歪め、工藤夫妻にとって都合のいい内容として読者に誤読させるというやり方だ。

たとえば「証拠史料編 ◉ その2」がその代表例である。「朝鮮人暴動の証拠」史料ではないがが、「特別編」として取り上げた大曲駒村『東京灰燼記』の引用も、完全に原文の趣旨をねじまげるひどい「引用」になっている。

三つ目のパターンとして、「入門編 ◉ トリックその4」で指摘した通り、(略)と示さずに原文の一部をこっそり省略しているものがある。しかもそれを凡例で居直っているのである。本来、それだけでレッドカードだが、それによって原文の内容を歪めている場合さえあるのだ。

たとえば「証拠史料編 ◉ その15」がその代表例である。

そもそも工藤夫妻は、こうした史料の多くを、朝鮮人虐殺問題関連の史料を収録した基本文献である『現代史資料6 関東大震災と朝鮮人』から孫引きしているようだ。引用16本のうち11本が、同書に掲載されているものである。

後書きではなんと謝辞まで述べている。「本書を執筆するにあたっては、みすず書房『現代史資料6』を特に参考にさせていただき、多くの示唆を得た。明記して謝意を表したい」だそうである。書名の前には普通、著者名を書くものだと思うが、なぜか「みすず書房」と版元名を書いており、編者である姜徳相/琴乗洞の名前は書かない。不可解であり、不快である。

いずれにしろ、工藤夫妻が「朝鮮人暴動の証拠」という文脈で取り上げる史料の問題点を、16本+1本(特別編)についてそれぞれ指摘したのが、この「証拠史料」編である。極端にマニアックな方は「その1」から「特別編」まで通読していただいて結構だし、そこまでではない方は、「その1」、「その2」、「その7」、「その15」、「特別編」だけでも読んでいただければ、工藤夫妻の「引用」の何がオカシイのか、十分に理解していただけると思う。


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証拠史料編 ◉ その1

【「証拠史料」編―工藤夫妻の示す「証拠」史料を検証する】

誰も見ていない
「不逞の鮮人約二千人」

………… 要点 ………………………………………………………………

  • 震災直後に書かれた避難民の談話記事
  • “目撃”証言ではなく、伝聞に基づいて“認識”を語ったもの
  • 「不逞の鮮人約二千は腕を組んで市中を横行」は軍司令官らが否定。目撃情報もなし

…………………………………………………………………………………

工藤夫妻による引用(『なかった』p.42)

――――――――――――――――――――――――――――
一日の大地震に続く大火災に辛ふじて身を以て免れた私は何等かの方法でこの悲惨極まる状況を知らしめたいと焦慮したが大崩壊に続く猛火には如何ともすることが出来ず、二日まで絶食のままで諸所を彷徨した(略)交通機関の全滅は元より徒歩さへも危険極まりない。況んや不逞の鮮人約二千は腕を組んで市中を横行し、掠奪を檀(ほしいまま)にするは元より、婦女子二三十人宛を拉し来たり随所に強姦するが如き非人道の所行を白昼に行ふてゐる。これに対する官憲の警備は東京市と異り、軍隊の出動もないので行届かざること甚だしく、遂には監獄囚人全部を開放し看守の指揮によりてこれが掃蕩に当らしめたので大戦闘となり、鮮人百余人を倒したが警備隊にも十余人の負傷を生じた模様である。以上の如き有り様なので食糧飲料水の欠乏は極に達し、然も救援の何ものもないので生き残った市民の全部は天を仰いで餓死を待つばかりである」
(大日本石鹸株式会社専務・細田勝一郎談『河北新報』大正十二年九月五日) 
――――――――――――――――――――――――――――

工藤夫妻は、『なかった』p.42~44にかけて、上の記事を含む、朝鮮人暴動に関連する三つの記事を引用したうえで、「こうした証言はあげれば際限がないほど多くを数える。だがこれに反し逆に日本人によって多数の「無実の朝鮮人」が虐殺されたのだと主張する説が長い間歴史観の主流を占めてきた」と書く。p.42では「無数の目撃談は幻を見たに過ぎないとでもいうのだろうか」とも書いているので、これらの記事が朝鮮人暴動を伝える目撃証言であり、これらの記事の存在がそのまま、朝鮮人暴動の実在の証拠と考えているようである。だが本当にそうだろうか。

はじめに」で書いたように、工藤夫妻は朝鮮人関連記事の引用の多くを、虐殺研究の基本文献である『現代史資料6 関東大震災と朝鮮人』に収録されている記事に依っているようだ。この記事もまた、『現代史資料6』に収録されているものだが、『現代史資料6』に収められているのは元の記事の一部にすぎない。記事の全文は、山田昭次編『朝鮮人虐殺関連新聞報道史料』(緑蔭書房、2004年)で確認することができる。長くなるが、以下にその全文を掲載するので、それを踏まえて、果たしてこの記事を「暴動の証拠」とする工藤夫妻の論が成り立つかどうか検証してみたい。

工藤夫妻が引用した部分を赤字にしてある。

――――――――――――――――――――――――――――
殆ど全滅の横浜/死傷約四十八万
看守が囚徒を指揮して二千の不逞鮮人と戦ふ
知事は負傷で起てず
救済の策も講ぜられない



横浜市の全滅は伝へられて居るが、通信交通共に杜絶して孤立の姿になつて居るので状況不明であつた処、4日午前9時50分の下り列車で3日午前に横浜港を立ち出で辛ふじて東京に入り、北海道の本社に向ふべく北行した大日本石鹸株式会社の専務細田勝一郎氏は、泥塗れとなつたばかりでなく、裂き破れた洋服姿で仙台駅の停車を利用し其の状況につき左の如く語つたが、連日の疲労と惨事の追想とに顔色憔悴を来たして居た。

一日の大地震に続く大火災に辛ふじて身を以て免れた私は、何等かの方法でこの悲惨極まる状況を知らしめたいと焦慮したが、大崩壊に続く猛火には如何ともすることが出来ず、二日まで絶食のままで諸所を彷徨したのだが、それにしても各方面の情勢を知るにつとめ三日の朝に至つて東京に向つた。私の実見する限りにおいては横浜市の総人口五十万の内実に四十八万は全滅の姿となつたといつてよろしい。

大地震に伴ふ海嘯が襲来したやうに伝へられたが、この災害は全くない。かかる惨害は一にかかりて地震火災である。即ち第一回第二回の大震動で建築物が崩壊し同時に各所から火を失して猛火全市を包み一面焦熱地獄と化したので、死滅者が少なくとも十五万人以上と算することが出来る。されば二日に至りてはさしもの大都邑も茫漠たる焼野ケ原と変じ、凄愴言語に絶する。道路は各所とも五尺乃至八尺の陥没を来たしてゐるから、交通機関の全滅は元より徒歩さへも危険極まりない。

況んや不逞の鮮人約二千は腕を組んで市中を横行し、掠奪を檀(ほしいまま)にするは元より、婦女子二三十人宛(ずつ)を拉し来たり随所に強姦するが如き非人道の所行を白昼に行ふてゐる。これに対する官憲の警備は東京市と異り、軍隊の出動もないので行届かざること甚だしく、遂には監獄囚人全部を開放し看守の指揮によりてこれが掃蕩に当らしめたので大戦闘となり、鮮人百余人を倒したが警備隊にも十余人の負傷を生じた模様である。以上の如き有り様なので食糧飲料水の欠乏は極に達し、然も救援の何ものもないので生残った市民の全部は天を仰いで餓死を待つばかりである。

海上方面は不明だが、これ亦(また)援助に上陸せぬのを見れば、大なる損害を蒙つたと想像される。斯くて市当局その他の生存者は知事に面談して善後策を講ずるべく県庁に至つたが庁舎は既に火災に罹り、知事は重傷を負ふて家族亦四散の有様にて如何ともすることが出来ない。大谷嘉兵衛翁亦同様の境遇に陥り、重要協議の途もなきに至つた。

渋沢子爵の別邸は矢張り灰燼に帰して在浜中の家族は僅(わずか)に亜鉛板二枚にて雨露を凌ぎ二日間の断食をしてゐた。総損害は元より不明だが七億円を下ることなかるべく回復の見込みの如きも到底覚束なしといふより外はない。横浜市の惨状を目にして東京市に入れば、損害の大なるは勿論だけれど、なほ救援の方法も幾分はつき、交通も相当に備はつて居る方面もあるから比較にならぬと思はれる。救援の何ものもない横浜市こそ空前の大悲惨事と云はねばならぬ。
(読みやすさを考慮して句読点を補った) 
――――――――――――――――――――――――――――

記事の全文を通読して分かることは、細田氏の談話は、彼が“目撃した”ものを語っているというよりは、横浜全体の状況についての彼の“状況認識”を語っているものであるということだ。細田氏自身の実体験は「断食のままで諸所を彷徨した」という程度にしか語られていない。語られている内容を見れば、その内容の多くが、伝聞や思い込みをもとにしたものであることは明らかだ。

そのため、明らかな事実誤認も含まれている。ひとつは「死滅者が少なくとも十五万以上」という部分である。関東大震災全体の死者・行方不明者数が10万5000人であるから、これは事実ではありえない。実際には、横浜の死者数は約2万6000人であった。

ひとつは、安河内麻吉・神奈川県知事が重傷を負い、一家が離散したという部分。これも誤りである。知事は震災時に横浜公園に避難した後に知事公舎に移動し、翌朝には久保山に避難して無事でいる家族と連絡をとっている。安河内知事はその後も、未曾有の災害に対処すべく奔走を続けているのである。

さらに、確かに横浜刑務所の開放は行なわれたが、それは朝鮮人と戦うことを目的としたものではなく、刑務所の建物が倒壊したために、法律に従って囚人の一時解放が行なわれたというのが実際である(吉河光貞『関東大震災の治安回顧』法務府審査局)。解放された囚人が市民とともに朝鮮人狩りを行ったという記録もあるが「大戦闘」の記録はない。

つまり、この見出しの中で明らかに正しいのは、「殆ど全滅の横浜」「救済の策も講ぜられない」の二つだけである。

見出しに掲げられている伝聞情報にこれだけ誤報が混じっているのに、「二千の不逞鮮人」という噂だけは無前提に事実だと、工藤夫妻は主張するのだろうか。

実際には、すでに第1部で紹介したように、神奈川警備隊を指揮した奥平中将が、「朝鮮人が強盗強姦を為し井戸に毒を投げ込み、放火その他各種の悪事をなせし」という噂は「ことごとく事実無根」であったと書き残している【→リンク】し、安河内知事もまた、9月4日の時点で「一人の現行犯ある鮮人を見出さざりし」「事実は隊伍を組みて来襲せしなどのこと皆無なり」(「神奈川県罹災状況」)と報告している【→リンク】。ほかにも、当時の横浜市長が「鮮人襲来の如き荒唐無稽な流言飛語」について書いている【→リンク】し、神奈川県警察幹部も「不逞鮮人の暴行」などの「流言飛語」について言及している【→リンク】。もちろん、朝鮮人暴徒をこの目で見たという住民の目撃証言もない。 

震災直後には、虚報・誤報が氾濫していたことは、すでに当サイトで繰り返し書いてきた。工藤夫妻が引用紹介している細田氏の談話記事も、震災直後の混乱した認識を示すものにすぎない。いかなる意味でも、これまでの常識を覆して“朝鮮人暴動”の実在を証明する“目撃証言”とは言えないだろう。そもそも、「これまでの常識」を作ってきた『現代史資料6』に掲載されている記事なのに、それをそのまま書き写すだけで、「これまでの常識」を覆す証拠になるわけがないのである。

証拠史料編 ◉ その2

【「証拠史料」編―工藤夫妻の示す「証拠」史料を検証する】

引用の切り取り方で
正反対に誤読させる

………… 要点 ………………………………………………………………

  • 肝心な部分の手前で引用を止め、原文を誤読させることで「朝鮮人暴動」証言に仕立てる
  • 原文は朝鮮人暴動の記録ではなく、自警団の暴力の目撃記録である

…………………………………………………………………………………

工藤夫妻による引用(『なかった』p.43)
――――――――――――――――――――――――――――
「(2日朝)岡検事、内田検事は東京から通勤して居たので東京も不安だとの話を聞いてから自宅を心配し初めた。私も早く東京との連絡を執らうと欲つて居たので若し出来ることなら両検事と一緒に上京し司法省及東京控訴院に報告しやうと思ひ、事務長に向ひランチの便あらば税関附近に上陸し裁判所の焼跡を見て司法省に報告したい、と話したが事務長は『陸上は危険ですから御上陸なさることは出来ない』といふ。何故危険かと問へば『鮮人の暴動です。昨夜来鮮人が暴動を起し市内各所に出没して強盗、強姦、殺人等をやって居る。殊に裁判所附近は最も危険で鮮人は小路に隠れてピストルを以て通行人を狙撃して居るとのことである。若し御疑あるならば現場を実見した巡査を御紹介しましやう』といふ」
(『横浜地方裁判所震災略記』パリー丸船内、部長判事長岡熊雄)
――――――――――――――――――――――――――――

これも、「その1」に引き続いて朝鮮人暴動の「目撃証言」として示されているものだ。

『横浜地方裁判所震災略記』は、震災から12年後の1935年の刊行。横浜地裁の関係者の震災手記を集めた本である。しかし、工藤夫妻はそこから直接引用したのではなく、この本からいくつかの手記を抜き出して収録した『現代史資料6』から孫引きしたのだと思われる。いずれにしろ、震災直後の新聞記事ではなく、世の中が落ち着いて以降に本人が自分の経験を書いたものであり、証言者の身元がはっきりしている。しかも判事であることなどを考え合わせても、その内容はかなり信用できるものだと言える。

震災時、横浜地方裁判所は完全に倒壊してしまった。圧死を免れた法曹関係者は横浜港に停泊する船に避難した。上の手記を書いた長岡判事は、大阪商船のパリー丸に避難していた。さて、工藤夫妻の引用で「朝鮮人暴動」にかかわって重要なのは、パリー丸の事務長の説明だ。事務長は、陸上では今、朝鮮人が暴動を起こし、各地で強盗、強姦、殺人などをやっていると言う。そしてそれを実際に見たという巡査もパリー丸に乗り合わせているというのである。工藤夫妻は、この事務長の説明の下りで引用を止めている。

きちんと読めば、この時点では暴動の「目撃証言」はまったく登場していないことが分かる。事務長は「現場を実見した巡査」から聞いた話をしているだけである。事務長の言うのが本当なら、巡査こそが暴動の目撃者であることになるが、この引用では、肝心の巡査本人は登場しない。だが、そういう人がいるらしいというだけで、暴動の話に信憑性があるように思えてくる。いや、そう思わせるのが工藤夫妻の狙いだろう。

ところが実は、その巡査は、工藤夫妻が引用を止めた直後にちゃんと登場し、発言しているのである。手記の続きを読んでみよう。

――――――――――――――――――――――――――――
私(長岡)は初めて鮮人の暴動を耳にし、異域無援の彼等は食料に窮し斯の如き兇暴を為すに至つたのだらうと考へ、事務長の紹介した県保安課の巡査(其名を記し置いたが何時か之を紛失した)に逢ひ其真偽を確めたところ、其巡査がいふには「昨日来、鮮人暴動の噂が市内に喧しく、昨夜私が長者町辺を通つたとき、中村町辺に銃声が聞こえました。警官は銃を持つて居ないから暴徒の所為に相違ないのです。噂に拠れば、鮮人は爆弾を携帯し、各所に放火し石油タンクを爆発させ、又井戸に毒を投げ婦女子を辱しむる等の暴行をして居るとのことです。今の処、御上陸は危険です」といふ。
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「鮮人暴動の噂」「相違ないので」「噂に拠れば」「とのことです」。なんのことはない。この巡査は結局、噂と思い込みを語っているにすぎなかったのである。唯一の「実見」は銃声だ。彼は「警官は銃を持つて居ないから(朝鮮人)暴徒の所為に相違ない」という。だが実際はどうだったろうか。実はこれもまた全く証拠とはならない。横浜では、自警団が銃を携帯していたことは、こちらの神奈川県警察部幹部の記録にも出てくる【→リンク】。1927年に横浜市がまとめた「横浜市震災誌」第5冊p.427に掲載されている西河春海(朝日新聞記者)の手記「遭難と其前後」には、猟銃を撃つ自警団の男の話が出てくる(同p.424~427。「横浜市震災誌」は横浜市教育委員会のHPで全て読むことができる【→リンク】)つまり、銃声=朝鮮人、という等式はまったく成立しないのである。この巡査の発言の中に「朝鮮人暴動」の証拠を見出すことはできない。

工藤夫妻は当然、『現代史資料6』で上の巡査の発言部分を含めて読んでいる。読んだ上で、巡査の発言の手前で引用を止めているのである。引用すれば、「鮮人の暴動を実見した」という巡査が実は何も「実見」していないことが明らかになってしまうからだろう。これは、控え目に言っても、誠実とは言えないやり方である。

実は、工藤夫妻の引用部分は長岡判事の手記のごく一部にすぎない。『現代史資料6』は長岡判事の手記の全文を掲載してはいないのだが、『現代史資料6』に引用された部分だけでも、長岡判事がその後、横浜で見たものを知ることができる。

巡査の話を聞いた長岡氏は翌日、それでも下船する。徒歩で東京・品川まで向かうのだが、上陸した横浜、そして品川で、流言による混乱と自警団の横暴を目撃する。

長岡氏は、伊勢崎町で人々が「人毎に棒を持つて居る」のを見る。彼は朝鮮人と区別するために赤布を巻くように言われたかと思うと、別の地域では「赤布は既に鮮人の覚る所となつたから本日から白布に代へることになった」と言われて白布に変えるように求められたりする。「警察部長から鮮人と見れば殺害しても差支ないといふ通達が出て居ると誠しやかに説明する」人にも出会う。「其半分以上は伝聞の架空事に相違ないが、如何にも誠しやかに話すので聞く人は皆真実の事のやうに思つて居る」。

子安町に着くと、至るところで人々が武装している。「壮丁が夥しく抜刀又は竹槍を携へて往来し居る、鮮人警戒の為だといふ。元亀天正の乱世時代を再現した有様だ、其壮丁の一人が私の腕に巻ける白布を見て横浜では本日から白布に代わりましたかと問ふ」「壮丁の一人は抜刀を突き付けて之を誰何す、車上の男は恐縮頓首恭しく住所氏名を告げて通過を許された。壮丁の多くは車夫鳶職等の思慮なき輩で兇器を揮て人を威嚇するのを面白がつて居る厄介な痴漢である。加之(これにくわえて)之を統率する者がないので一人が騒げば他は之に雷同する有様で通行人は実に危険至極である」。

続いてこんな記述もある。「道にて鮮人の夫婦らしき顔をして居る者が五六人の壮丁の為詰問せられ懐中を検査せられて居るのを見た」「生麦から鶴見にいく、此辺の壮丁も抜刀又は竹槍を携へて往来して居る。路傍に惨殺された死体五六を見た。余り残酷なる殺害方法なので筆にするのも嫌だ」。この遺体は、「殺害しても差支ない」とされた朝鮮人、あるいは朝鮮人「らしき顔」をしていた人のものだろう。

長岡氏は夕方、品川の両親の家にたどり着く。品川では、彼自身が朝鮮人と疑われ、竹槍をもった自警団に尾行される。家に着くと、年老いた父から、彼も自警団に棒で尻をたたかれたと聞かされる。

以上が、長岡氏の手記に記録された、93日の横浜、品川の状況だ。このどこに、朝鮮人暴動の目撃記録があるのだろうか。そこに記録されているのはむしろ、流言による混乱と自警団の暴力である。繰り返しになるが、工藤夫妻はこれを読んでいるはずなのである。

『現代史資料6』には、長岡氏の手記のほかにも、12編の手記が『横浜地方裁判所震災略記』から転載されている。その中には、もっとはっきりとした朝鮮人虐殺の目撃証言も残されている。最後にそれらを部分的に抜粋して紹介しておこう。

「道路における鮮人の死体、多数が鮮人を拉して行く様を見ては可愛相と思ひ…」(伊藤祐一判事)。
「(横浜)駅の右方がガードを越えし処にて黒山の如き群集あり何ときけば××××を銃剣にて刺殺しつつあるなり頭部と云はず、滅多切にして溝中になげこむ惨虐目もあてられず、殺気満々たる気分の中にありておそろしきとも覚えず二人まで見たれ共おもひ返して神奈川へいそぐ」(故横浜地裁福鎌検事正代理夫人・福鎌恒子)。
「焼死者にあらず血みぞれの生々しき死者数人あり、聞けば○○なり」(巻よね子)。

すでに繰り返してきたように、横浜市に “朝鮮人暴徒” がいなかったことは、神奈川警備隊の指揮官である奥平俊蔵中将や安河内麻吉神奈川県知事なども認めているところである。“朝鮮人暴徒”の目撃証言も残っていない。一方、横浜における虐殺の目撃証言は多数に上っている。それを覆す内容は、長岡判事の手記には含まれていない。むしろ、自警団の暴力が記録されているものだ。それにもかかわらず、工藤夫妻は、原文を不誠実に切り取ることによって、彼の手記を“朝鮮人暴動の証言”に仕立ててしまったのである。


2015年2月24日火曜日

証拠史料編 ◉ その3

【「証拠史料」編―工藤夫妻の示す「証拠」史料を検証する】

品川を偵察した軍部隊が
「朝鮮人来襲は虚報」と報告している


………… 要点 ………………………………………………………………

  • 震災直後の談話記事である。
  • 「この目で見た」という目撃情報ではなく、談話者の状況認識を語っているものにすぎない。
  • “品川周辺で暴徒を探し回った軍部隊が「鮮人襲来の報は全然虚報」と結論を出している。

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工藤夫妻による引用(『なかった』p.44)
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「品川は三日に横浜方面から三百人位の朝鮮人が押寄せ掠奪したり爆弾を投じたりするので近所の住民は獲物を以て戦ひました。鮮人は鉄砲や日本刀で掛るので危険でした。其中に第三連隊がやつてきて鮮人は大分殺されましたが日本人が鮮人に間違はれて殺された者が沢山ありました」
(『北海タイムス』大正十二年九月六日)

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これもまた、『現代史資料6』からの孫引き(同書p.173)と思われる。工藤夫妻の引用では省かれてしまっているが、「東京電気学校生徒西郷正秀君」の談話記事である。工藤夫妻がp.42からp.44で朝鮮人暴動の「目撃者の談話」として掲げている記事の三つ目、最後のものだ。だが、一読して分かるように、品川の状況についての「西郷君」の認識を語っているものであり、そのどこまでが西郷君が「この目で見た」ことなのかはよく分からない。しかしこの記事の事実性については多言を要しない。以下に、警視庁『大正大震火災誌』第2編「警察署の活動」第43章の品川警察署大崎分署の報告から関連部分を引用する。

「(2日)午後五時頃管内戸越巡査派出所員より急報あり、曰く『自動車運転手の訴へに依れば鮮人約二百余名、神奈川県寺尾山方面に於て殺傷、掠奪、放火等の暴行を行ひ、漸次東京方面に向へるものの如し』と、而して荏原郡調布村大字下沼部の一農夫も亦(また)当署に来りて之と同様の申告を為したりしが、幾もなく、『鮮人約三千名既に多摩川を渉り、洗足村及び中延附近に来襲し、今や暴行を為しつつあり』など云へる情報をもたらすもの少なからず、是に於て署員を多摩川丸子方面に派遣して偵察せしめたるも異変を認めず、更に神奈川県を調査するも其事なし、尋で第一師団司令部より多摩川附近五里四方には不逞徒輩を見ずとの発表あり、即ち鮮人に関する報道は流言に過ぎざるを知り、之を民衆に伝へたれども敢て信ぜず、自警団を組織し、戎器を執りて自ら衛るもの多く、鮮人に対して或は迫害を加へ、或は逮捕して当署に同行するのみならず、内地人も亦鮮人と誤解せられて其迫害を受くるもの亦多し、是に於て翌三日管内在住鮮人百八十余名を保護検束するとともに(後略)」
(警視庁『大正大震火災誌』 p.1242・原文カナ)

警視庁『大正大震火災誌』は「国立国会図書館デジタルコレクション」で閲覧できる。

これが、世の中が落ち着いて以降の認識なのである。この大崎分署の報告のほか、流言に基づいて品川周辺で「暴徒鎮圧」に出動した軍部隊が、「鮮人襲来の報は全然虚報」という結論に達したことを記録する報告もある(歩兵第三連隊勲功具状、『現代史資料6』)。これらに加えて、さらには内務省警保局の後藤文夫局長の回想によっても、品川における「三百人位の朝鮮人が押寄せ掠奪したり爆弾を投じたりする」ような事態は否定されている。実際、「鉄砲や日本刀で掛る」朝鮮人を見たという住民の目撃証言も、震災直後のこの手の新聞記事をのぞいて、ひとつも残っていない。

9月6日と言えば、まだ震災直後の混乱期に属する。実際に起きていることは何か、多くの人がまだ理解できずにいた時期だ。「東京電気学校生徒西郷正秀君」はおそらくは数日前に東京を脱出したのであろう。遠く北海道の新聞が、裏を取ることもなく彼の談話を載せたのがこの記事だ。そして西郷君は、彼が事実だと考えている品川の状況を語ってはいるが、自らが目撃したことを語っているわけではない。果たしてこれが、暴動の実在を否定する記録や証言の厚みを覆すような証拠になりうるだろうか。工藤夫妻は、こうした疑問には何も答えていない。

ちなみに品川では、流言に端を発した迫害によって、立件されただけでも朝鮮人6人が重症を負い、日本人1人が殺されている。

横浜から朝鮮人数百人が来襲するという流言は、ほかに大森署や世田谷署の報告にも見ることができる。朝鮮人暴動流言が最も早く大規模に発生したのは横浜であり、避難民の移動にともなって東京に流れ込んだと見られている(吉河光貞『関東大震災の治安回顧』法務府審査局)が、横浜市から東海道を北上して東京に来るとき、品川はその玄関にあたる。品川で流言が盛んだったのはそのためだろう。付け加えておけば、警察もまた流言を数日間は信じ、拡散していたことが、多くの証言から分かっている。