このブログについて

このブログは、工藤美代子/加藤康男による「関東大震災時の朝鮮人虐殺を否定する本」を検証するために、

「民族差別への抗議行動・知らせ隊+チーム1923」が作成するものです。

初めてご覧になる方は、入門編「はじめに」からお読みください。

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2015年2月25日水曜日

証拠史料編 ◉ はじめに

【「証拠史料」編―工藤夫妻の示す「証拠」史料を検証する】


「証拠史料」編の読み方

「証拠史料」編では、工藤夫妻が「朝鮮人暴動」が実在した証拠を示す意味で行っている史料引用について、そのひとつひとつを取り上げて検証する。俎上に上げるのは、工藤夫妻が著書の中で行っている多くの引用のうち、「暴動の証拠」という文脈で登場する16本と、そういうわけではないがあまりにひどい史料の扱いなのでぜひ皆さんに紹介したい特別編1本の計17本である。検証のポイントは二つ。「この史料が本当に朝鮮人暴動の実在の証拠になっているか」という点と、工藤夫妻の史料の読み方・読ませ方・扱い方に問題はないか、という点である。

工藤夫妻による「証拠」史料引用の第一の問題は、そのほとんどが、情報が錯綜していた震災直後の新聞記事であるということである。16本中12本がこの時期のものだ。

震災直後には誤報、虚報が氾濫したこと、分けても朝鮮人暴動記事については流言をそのまま書いたものにすぎないという評価が震災から数ヵ月後には常識となり、その後もそれが定着していることについては、当サイトの「震災直後の新聞のデタラメ 」や「入門編 ◉ トリックその1 誤報・虚報が横行した震災直後の新聞記事を『証拠』に仕立てる」ですでに指摘した。ところが工藤夫妻は、記事の内容を額面通りの事実として論を進めている。

混乱が過ぎ去った後に書かれた報道、証言、行政の記録に照らせば、それらの記事に描かれている「朝鮮人暴動」が流言にすぎなかったことは自明である。ところが工藤夫妻は、そうした後の記録とつき合わせて震災直後の記事の事実性を検証しようとはしていない。

なぜ、混乱期の記事だけに固執するのだろうか。たとえ話をすれば、1994年の松本サリン事件の真相を追究すると称する人が、なぜか、誤った犯人視報道であふれた94年の記事だけを証拠として扱い、地下鉄サリン事件があった95年以降の記事や記録には一切ふれないようなものである。その底意を疑われても仕方ないだろう。

そこで私たちは、この「証拠史料」編で、工藤夫妻が引用するひとつひとつの史料について、いくつかの視点から検証を行ってみようと思う。

第一の視点は、工藤夫妻が「暴動の証拠」として掲げる史料の内容が、後の行政記録や報道などとつき合わせてみて、暴動の証拠という意味でどれだけの信憑性をもちうるかを検証するというものだ。

その視点からの検証を中心に行っているのが、「証拠史料編 ◉ その1」である。

第二の視点は、史料の内容そのものではなく、工藤夫妻によるその読み方、読ませ方、扱い方を検証するものだ。

工藤夫妻の史料の読み方にはおかしな部分がたくさんあるが、そのパターンは3つある。

その一つのパターンは、「朝鮮人が襲ってくる」といった「伝聞」を語っているだけの談話記事や手記を、朝鮮人暴動の目撃証言であるかのように扱うことである。 “流言にあわてふためいたが、結局、1人の朝鮮人さえ見ることもなく終わった”という類の内容を、“幸いにも朝鮮人に攻撃されずにすんだ”エピソードとして朝鮮人暴動の証拠として掲げるという、呆れかえるようなことさえしている。

たとえば「証拠史料編 ◉ その7」がその代表例である。

もう一つのパターンは、原文の一部を不自然に切り取ることで原文が伝える内容を歪め、工藤夫妻にとって都合のいい内容として読者に誤読させるというやり方だ。

たとえば「証拠史料編 ◉ その2」がその代表例である。「朝鮮人暴動の証拠」史料ではないがが、「特別編」として取り上げた大曲駒村『東京灰燼記』の引用も、完全に原文の趣旨をねじまげるひどい「引用」になっている。

三つ目のパターンとして、「入門編 ◉ トリックその4」で指摘した通り、(略)と示さずに原文の一部をこっそり省略しているものがある。しかもそれを凡例で居直っているのである。本来、それだけでレッドカードだが、それによって原文の内容を歪めている場合さえあるのだ。

たとえば「証拠史料編 ◉ その15」がその代表例である。

そもそも工藤夫妻は、こうした史料の多くを、朝鮮人虐殺問題関連の史料を収録した基本文献である『現代史資料6 関東大震災と朝鮮人』から孫引きしているようだ。引用16本のうち11本が、同書に掲載されているものである。

後書きではなんと謝辞まで述べている。「本書を執筆するにあたっては、みすず書房『現代史資料6』を特に参考にさせていただき、多くの示唆を得た。明記して謝意を表したい」だそうである。書名の前には普通、著者名を書くものだと思うが、なぜか「みすず書房」と版元名を書いており、編者である姜徳相/琴乗洞の名前は書かない。不可解であり、不快である。

いずれにしろ、工藤夫妻が「朝鮮人暴動の証拠」という文脈で取り上げる史料の問題点を、16本+1本(特別編)についてそれぞれ指摘したのが、この「証拠史料」編である。極端にマニアックな方は「その1」から「特別編」まで通読していただいて結構だし、そこまでではない方は、「その1」、「その2」、「その7」、「その15」、「特別編」だけでも読んでいただければ、工藤夫妻の「引用」の何がオカシイのか、十分に理解していただけると思う。


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証拠史料編 ◉ その1

【「証拠史料」編―工藤夫妻の示す「証拠」史料を検証する】

誰も見ていない
「不逞の鮮人約二千人」

………… 要点 ………………………………………………………………

  • 震災直後に書かれた避難民の談話記事
  • “目撃”証言ではなく、伝聞に基づいて“認識”を語ったもの
  • 「不逞の鮮人約二千は腕を組んで市中を横行」は軍司令官らが否定。目撃情報もなし

…………………………………………………………………………………

工藤夫妻による引用(『なかった』p.42)

――――――――――――――――――――――――――――
一日の大地震に続く大火災に辛ふじて身を以て免れた私は何等かの方法でこの悲惨極まる状況を知らしめたいと焦慮したが大崩壊に続く猛火には如何ともすることが出来ず、二日まで絶食のままで諸所を彷徨した(略)交通機関の全滅は元より徒歩さへも危険極まりない。況んや不逞の鮮人約二千は腕を組んで市中を横行し、掠奪を檀(ほしいまま)にするは元より、婦女子二三十人宛を拉し来たり随所に強姦するが如き非人道の所行を白昼に行ふてゐる。これに対する官憲の警備は東京市と異り、軍隊の出動もないので行届かざること甚だしく、遂には監獄囚人全部を開放し看守の指揮によりてこれが掃蕩に当らしめたので大戦闘となり、鮮人百余人を倒したが警備隊にも十余人の負傷を生じた模様である。以上の如き有り様なので食糧飲料水の欠乏は極に達し、然も救援の何ものもないので生き残った市民の全部は天を仰いで餓死を待つばかりである」
(大日本石鹸株式会社専務・細田勝一郎談『河北新報』大正十二年九月五日) 
――――――――――――――――――――――――――――

工藤夫妻は、『なかった』p.42~44にかけて、上の記事を含む、朝鮮人暴動に関連する三つの記事を引用したうえで、「こうした証言はあげれば際限がないほど多くを数える。だがこれに反し逆に日本人によって多数の「無実の朝鮮人」が虐殺されたのだと主張する説が長い間歴史観の主流を占めてきた」と書く。p.42では「無数の目撃談は幻を見たに過ぎないとでもいうのだろうか」とも書いているので、これらの記事が朝鮮人暴動を伝える目撃証言であり、これらの記事の存在がそのまま、朝鮮人暴動の実在の証拠と考えているようである。だが本当にそうだろうか。

「はじめに」で書いたように、工藤夫妻は朝鮮人関連記事の引用の多くを、虐殺研究の基本文献である『現代史資料6 関東大震災と朝鮮人』に収録されている記事に依っているようだ。この記事もまた、『現代史資料6』に収録されているものだが、『現代史資料6』に収められているのは元の記事の一部にすぎない。記事の全文は、山田昭次編『朝鮮人虐殺関連新聞報道史料』(緑蔭書房、2004年)で確認することができる。長くなるが、以下にその全文を掲載するので、それを踏まえて、果たしてこの記事を「暴動の証拠」とする工藤夫妻の論が成り立つかどうか検証してみたい。

工藤夫妻が引用した部分を赤字にしてある。

――――――――――――――――――――――――――――
殆ど全滅の横浜/死傷約四十八万
看守が囚徒を指揮して二千の不逞鮮人と戦ふ
知事は負傷で起てず
救済の策も講ぜられない



横浜市の全滅は伝へられて居るが、通信交通共に杜絶して孤立の姿になつて居るので状況不明であつた処、4日午前9時50分の下り列車で3日午前に横浜港を立ち出で辛ふじて東京に入り、北海道の本社に向ふべく北行した大日本石鹸株式会社の専務細田勝一郎氏は、泥塗れとなつたばかりでなく、裂き破れた洋服姿で仙台駅の停車を利用し其の状況につき左の如く語つたが、連日の疲労と惨事の追想とに顔色憔悴を来たして居た。

一日の大地震に続く大火災に辛ふじて身を以て免れた私は、何等かの方法でこの悲惨極まる状況を知らしめたいと焦慮したが、大崩壊に続く猛火には如何ともすることが出来ず、二日まで絶食のままで諸所を彷徨したのだが、それにしても各方面の情勢を知るにつとめ三日の朝に至つて東京に向つた。私の実見する限りにおいては横浜市の総人口五十万の内実に四十八万は全滅の姿となつたといつてよろしい。

大地震に伴ふ海嘯が襲来したやうに伝へられたが、この災害は全くない。かかる惨害は一にかかりて地震火災である。即ち第一回第二回の大震動で建築物が崩壊し同時に各所から火を失して猛火全市を包み一面焦熱地獄と化したので、死滅者が少なくとも十五万人以上と算することが出来る。されば二日に至りてはさしもの大都邑も茫漠たる焼野ケ原と変じ、凄愴言語に絶する。道路は各所とも五尺乃至八尺の陥没を来たしてゐるから、交通機関の全滅は元より徒歩さへも危険極まりない。

況んや不逞の鮮人約二千は腕を組んで市中を横行し、掠奪を檀(ほしいまま)にするは元より、婦女子二三十人宛(ずつ)を拉し来たり随所に強姦するが如き非人道の所行を白昼に行ふてゐる。これに対する官憲の警備は東京市と異り、軍隊の出動もないので行届かざること甚だしく、遂には監獄囚人全部を開放し看守の指揮によりてこれが掃蕩に当らしめたので大戦闘となり、鮮人百余人を倒したが警備隊にも十余人の負傷を生じた模様である。以上の如き有り様なので食糧飲料水の欠乏は極に達し、然も救援の何ものもないので生残った市民の全部は天を仰いで餓死を待つばかりである。

海上方面は不明だが、これ亦(また)援助に上陸せぬのを見れば、大なる損害を蒙つたと想像される。斯くて市当局その他の生存者は知事に面談して善後策を講ずるべく県庁に至つたが庁舎は既に火災に罹り、知事は重傷を負ふて家族亦四散の有様にて如何ともすることが出来ない。大谷嘉兵衛翁亦同様の境遇に陥り、重要協議の途もなきに至つた。

渋沢子爵の別邸は矢張り灰燼に帰して在浜中の家族は僅(わずか)に亜鉛板二枚にて雨露を凌ぎ二日間の断食をしてゐた。総損害は元より不明だが七億円を下ることなかるべく回復の見込みの如きも到底覚束なしといふより外はない。横浜市の惨状を目にして東京市に入れば、損害の大なるは勿論だけれど、なほ救援の方法も幾分はつき、交通も相当に備はつて居る方面もあるから比較にならぬと思はれる。救援の何ものもない横浜市こそ空前の大悲惨事と云はねばならぬ。
(読みやすさを考慮して句読点を補った) 
――――――――――――――――――――――――――――

記事の全文を通読して分かることは、細田氏の談話は、彼が“目撃した”ものを語っているというよりは、横浜全体の状況についての彼の“状況認識”を語っているものであるということだ。細田氏自身の実体験は「断食のままで諸所を彷徨した」という程度にしか語られていない。語られている内容を見れば、その内容の多くが、伝聞や思い込みをもとにしたものであることは明らかだ。

そのため、明らかな事実誤認も含まれている。ひとつは「死滅者が少なくとも十五万以上」という部分である。関東大震災全体の死者・行方不明者数が10万5000人であるから、これは事実ではありえない。実際には、横浜の死者数は約2万6000人であった。

ひとつは、安河内麻吉・神奈川県知事が重傷を負い、一家が離散したという部分。これも誤りである。知事は震災時に横浜公園に避難した後に知事公舎に移動し、翌朝には久保山に避難して無事でいる家族と連絡をとっている。安河内知事はその後も、未曾有の災害に対処すべく奔走を続けているのである。

さらに、確かに横浜刑務所の開放は行なわれたが、それは朝鮮人と戦うことを目的としたものではなく、刑務所の建物が倒壊したために、法律に従って囚人の一時解放が行なわれたというのが実際である(吉河光貞『関東大震災の治安回顧』法務府審査局)。解放された囚人が市民とともに朝鮮人狩りを行ったという記録もあるが「大戦闘」の記録はない。

つまり、この見出しの中で明らかに正しいのは、「殆ど全滅の横浜」「救済の策も講ぜられない」の二つだけである。

見出しに掲げられている伝聞情報にこれだけ誤報が混じっているのに、「二千の不逞鮮人」という噂だけは無前提に事実だと、工藤夫妻は主張するのだろうか。

実際には、すでに第1部で紹介したように、神奈川警備隊を指揮した奥平中将が、「朝鮮人が強盗強姦を為し井戸に毒を投げ込み、放火その他各種の悪事をなせし」という噂は「ことごとく事実無根」であったと書き残している【→リンク】し、安河内知事もまた、9月4日の時点で「一人の現行犯ある鮮人を見出さざりし」「事実は隊伍を組みて来襲せしなどのこと皆無なり」(「神奈川県罹災状況」)と報告している【→リンク】。ほかにも、当時の横浜市長が「鮮人襲来の如き荒唐無稽な流言飛語」について書いている【→リンク】し、神奈川県警察幹部も「不逞鮮人の暴行」などの「流言飛語」について言及している【→リンク】。もちろん、朝鮮人暴徒をこの目で見たという住民の目撃証言もない。 

震災直後には、虚報・誤報が氾濫していたことは、すでに当サイトで繰り返し書いてきた。工藤夫妻が引用紹介している細田氏の談話記事も、震災直後の混乱した認識を示すものにすぎない。いかなる意味でも、これまでの常識を覆して“朝鮮人暴動”の実在を証明する“目撃証言”とは言えないだろう。そもそも、「これまでの常識」を作ってきた『現代史資料6』に掲載されている記事なのに、それをそのまま書き写すだけで、「これまでの常識」を覆す証拠になるわけがないのである。

証拠史料編 ◉ その2

【「証拠史料」編―工藤夫妻の示す「証拠」史料を検証する】

引用の切り取り方で
正反対に誤読させる

………… 要点 ………………………………………………………………

  • 肝心な部分の手前で引用を止め、原文を誤読させることで「朝鮮人暴動」証言に仕立てる
  • 原文は朝鮮人暴動の記録ではなく、自警団の暴力の目撃記録である

…………………………………………………………………………………

工藤夫妻による引用(『なかった』p.43)
――――――――――――――――――――――――――――
「(2日朝)岡検事、内田検事は東京から通勤して居たので東京も不安だとの話を聞いてから自宅を心配し初めた。私も早く東京との連絡を執らうと欲つて居たので若し出来ることなら両検事と一緒に上京し司法省及東京控訴院に報告しやうと思ひ、事務長に向ひランチの便あらば税関附近に上陸し裁判所の焼跡を見て司法省に報告したい、と話したが事務長は『陸上は危険ですから御上陸なさることは出来ない』といふ。何故危険かと問へば『鮮人の暴動です。昨夜来鮮人が暴動を起し市内各所に出没して強盗、強姦、殺人等をやって居る。殊に裁判所附近は最も危険で鮮人は小路に隠れてピストルを以て通行人を狙撃して居るとのことである。若し御疑あるならば現場を実見した巡査を御紹介しましやう』といふ」
(『横浜地方裁判所震災略記』パリー丸船内、部長判事長岡熊雄)
――――――――――――――――――――――――――――

これも、「その1」に引き続いて朝鮮人暴動の「目撃証言」として示されているものだ。

『横浜地方裁判所震災略記』は、震災から12年後の1935年の刊行。横浜地裁の関係者の震災手記を集めた本である。しかし、工藤夫妻はそこから直接引用したのではなく、この本からいくつかの手記を抜き出して収録した『現代史資料6』から孫引きしたのだと思われる。いずれにしろ、震災直後の新聞記事ではなく、世の中が落ち着いて以降に本人が自分の経験を書いたものであり、証言者の身元がはっきりしている。しかも判事であることなどを考え合わせても、その内容はかなり信用できるものだと言える。

震災時、横浜地方裁判所は完全に倒壊してしまった。圧死を免れた法曹関係者は横浜港に停泊する船に避難した。上の手記を書いた長岡判事は、大阪商船のパリー丸に避難していた。さて、工藤夫妻の引用で「朝鮮人暴動」にかかわって重要なのは、パリー丸の事務長の説明だ。事務長は、陸上では今、朝鮮人が暴動を起こし、各地で強盗、強姦、殺人などをやっていると言う。そしてそれを実際に見たという巡査もパリー丸に乗り合わせているというのである。工藤夫妻は、この事務長の説明の下りで引用を止めている。

きちんと読めば、この時点では暴動の「目撃証言」はまったく登場していないことが分かる。事務長は「現場を実見した巡査」から聞いた話をしているだけである。事務長の言うのが本当なら、巡査こそが暴動の目撃者であることになるが、この引用では、肝心の巡査本人は登場しない。だが、そういう人がいるらしいというだけで、暴動の話に信憑性があるように思えてくる。いや、そう思わせるのが工藤夫妻の狙いだろう。

ところが実は、その巡査は、工藤夫妻が引用を止めた直後にちゃんと登場し、発言しているのである。手記の続きを読んでみよう。

――――――――――――――――――――――――――――
私(長岡)は初めて鮮人の暴動を耳にし、異域無援の彼等は食料に窮し斯の如き兇暴を為すに至つたのだらうと考へ、事務長の紹介した県保安課の巡査(其名を記し置いたが何時か之を紛失した)に逢ひ其真偽を確めたところ、其巡査がいふには「昨日来、鮮人暴動の噂が市内に喧しく、昨夜私が長者町辺を通つたとき、中村町辺に銃声が聞こえました。警官は銃を持つて居ないから暴徒の所為に相違ないのです。噂に拠れば、鮮人は爆弾を携帯し、各所に放火し石油タンクを爆発させ、又井戸に毒を投げ婦女子を辱しむる等の暴行をして居るとのことです。今の処、御上陸は危険です」といふ。
――――――――――――――――――――――――――――

「鮮人暴動の噂」「相違ないので」「噂に拠れば」「とのことです」。なんのことはない。この巡査は結局、噂と思い込みを語っているにすぎなかったのである。唯一の「実見」は銃声だ。彼は「警官は銃を持つて居ないから(朝鮮人)暴徒の所為に相違ない」という。だが実際はどうだったろうか。実はこれもまた全く証拠とはならない。横浜では、自警団が銃を携帯していたことは、こちらの神奈川県警察部幹部の記録にも出てくる【→リンク】。1927年に横浜市がまとめた「横浜市震災誌」第5冊p.427に掲載されている西河春海(朝日新聞記者)の手記「遭難と其前後」には、猟銃を撃つ自警団の男の話が出てくる(同p.424~427。「横浜市震災誌」は横浜市教育委員会のHPで全て読むことができる【→リンク】)つまり、銃声=朝鮮人、という等式はまったく成立しないのである。この巡査の発言の中に「朝鮮人暴動」の証拠を見出すことはできない。

工藤夫妻は当然、『現代史資料6』で上の巡査の発言部分を含めて読んでいる。読んだ上で、巡査の発言の手前で引用を止めているのである。引用すれば、「鮮人の暴動を実見した」という巡査が実は何も「実見」していないことが明らかになってしまうからだろう。これは、控え目に言っても、誠実とは言えないやり方である。

実は、工藤夫妻の引用部分は長岡判事の手記のごく一部にすぎない。『現代史資料6』は長岡判事の手記の全文を掲載してはいないのだが、『現代史資料6』に引用された部分だけでも、長岡判事がその後、横浜で見たものを知ることができる。

巡査の話を聞いた長岡氏は翌日、それでも下船する。徒歩で東京・品川まで向かうのだが、上陸した横浜、そして品川で、流言による混乱と自警団の横暴を目撃する。

長岡氏は、伊勢崎町で人々が「人毎に棒を持つて居る」のを見る。彼は朝鮮人と区別するために赤布を巻くように言われたかと思うと、別の地域では「赤布は既に鮮人の覚る所となつたから本日から白布に代へることになった」と言われて白布に変えるように求められたりする。「警察部長から鮮人と見れば殺害しても差支ないといふ通達が出て居ると誠しやかに説明する」人にも出会う。「其半分以上は伝聞の架空事に相違ないが、如何にも誠しやかに話すので聞く人は皆真実の事のやうに思つて居る」。

子安町に着くと、至るところで人々が武装している。「壮丁が夥しく抜刀又は竹槍を携へて往来し居る、鮮人警戒の為だといふ。元亀天正の乱世時代を再現した有様だ、其壮丁の一人が私の腕に巻ける白布を見て横浜では本日から白布に代わりましたかと問ふ」「壮丁の一人は抜刀を突き付けて之を誰何す、車上の男は恐縮頓首恭しく住所氏名を告げて通過を許された。壮丁の多くは車夫鳶職等の思慮なき輩で兇器を揮て人を威嚇するのを面白がつて居る厄介な痴漢である。加之(これにくわえて)之を統率する者がないので一人が騒げば他は之に雷同する有様で通行人は実に危険至極である」。

続いてこんな記述もある。「道にて鮮人の夫婦らしき顔をして居る者が五六人の壮丁の為詰問せられ懐中を検査せられて居るのを見た」「生麦から鶴見にいく、此辺の壮丁も抜刀又は竹槍を携へて往来して居る。路傍に惨殺された死体五六を見た。余り残酷なる殺害方法なので筆にするのも嫌だ」。この遺体は、「殺害しても差支ない」とされた朝鮮人、あるいは朝鮮人「らしき顔」をしていた人のものだろう。

長岡氏は夕方、品川の両親の家にたどり着く。品川では、彼自身が朝鮮人と疑われ、竹槍をもった自警団に尾行される。家に着くと、年老いた父から、彼も自警団に棒で尻をたたかれたと聞かされる。

以上が、長岡氏の手記に記録された、9月3日の横浜、品川の状況だ。このどこに、朝鮮人暴動の目撃記録があるのだろうか。そこに記録されているのはむしろ、流言による混乱と自警団の暴力である。繰り返しになるが、工藤夫妻はこれを読んでいるはずなのである。

『現代史資料6』には、長岡氏の手記のほかにも、12編の手記が『横浜地方裁判所震災略記』から転載されている。その中には、もっとはっきりとした朝鮮人虐殺の目撃証言も残されている。最後にそれらを部分的に抜粋して紹介しておこう。

「道路における鮮人の死体、多数が鮮人を拉して行く様を見ては可愛相と思ひ…」(伊藤祐一判事)。
「(横浜)駅の右方がガードを越えし処にて黒山の如き群集あり何ときけば××××を銃剣にて刺殺しつつあるなり頭部と云はず、滅多切にして溝中になげこむ惨虐目もあてられず、殺気満々たる気分の中にありておそろしきとも覚えず二人まで見たれ共おもひ返して神奈川へいそぐ」(故横浜地裁福鎌検事正代理夫人・福鎌恒子)。
「焼死者にあらず血みぞれの生々しき死者数人あり、聞けば○○なり」(巻よね子)。

すでに繰り返してきたように、横浜市に “朝鮮人暴徒” がいなかったことは、神奈川警備隊の指揮官である奥平俊蔵中将や安河内麻吉神奈川県知事なども認めているところである。“朝鮮人暴徒”の目撃証言も残っていない。一方、横浜における虐殺の目撃証言は多数に上っている。それを覆す内容は、長岡判事の手記には含まれていない。むしろ、自警団の暴力が記録されているものだ。それにもかかわらず、工藤夫妻は、原文を不誠実に切り取ることによって、彼の手記を“朝鮮人暴動の証言”に仕立ててしまったのである。


2015年2月24日火曜日

証拠史料編 ◉ その3

【「証拠史料」編―工藤夫妻の示す「証拠」史料を検証する】

品川を偵察した軍部隊が
「朝鮮人来襲は虚報」と報告している


………… 要点 ………………………………………………………………

  • 震災直後の談話記事である。
  • 「この目で見た」という目撃情報ではなく、談話者の状況認識を語っているものにすぎない。
  • “品川周辺で暴徒を探し回った軍部隊が「鮮人襲来の報は全然虚報」と結論を出している。

…………………………………………………………………………………

工藤夫妻による引用(『なかった』p.44)
――――――――――――――――――――――――――――

「品川は三日に横浜方面から三百人位の朝鮮人が押寄せ掠奪したり爆弾を投じたりするので近所の住民は獲物を以て戦ひました。鮮人は鉄砲や日本刀で掛るので危険でした。其中に第三連隊がやつてきて鮮人は大分殺されましたが日本人が鮮人に間違はれて殺された者が沢山ありました」
(『北海タイムス』大正十二年九月六日)

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これもまた、『現代史資料6』からの孫引き(同書p.173)と思われる。工藤夫妻の引用では省かれてしまっているが、「東京電気学校生徒西郷正秀君」の談話記事である。工藤夫妻がp.42からp.44で朝鮮人暴動の「目撃者の談話」として掲げている記事の三つ目、最後のものだ。だが、一読して分かるように、品川の状況についての「西郷君」の認識を語っているものであり、そのどこまでが西郷君が「この目で見た」ことなのかはよく分からない。しかしこの記事の事実性については多言を要しない。以下に、警視庁『大正大震火災誌』第2編「警察署の活動」第43章の品川警察署大崎分署の報告から関連部分を引用する。

「(2日)午後五時頃管内戸越巡査派出所員より急報あり、曰く『自動車運転手の訴へに依れば鮮人約二百余名、神奈川県寺尾山方面に於て殺傷、掠奪、放火等の暴行を行ひ、漸次東京方面に向へるものの如し』と、而して荏原郡調布村大字下沼部の一農夫も亦(また)当署に来りて之と同様の申告を為したりしが、幾もなく、『鮮人約三千名既に多摩川を渉り、洗足村及び中延附近に来襲し、今や暴行を為しつつあり』など云へる情報をもたらすもの少なからず、是に於て署員を多摩川丸子方面に派遣して偵察せしめたるも異変を認めず、更に神奈川県を調査するも其事なし、尋で第一師団司令部より多摩川附近五里四方には不逞徒輩を見ずとの発表あり、即ち鮮人に関する報道は流言に過ぎざるを知り、之を民衆に伝へたれども敢て信ぜず、自警団を組織し、戎器を執りて自ら衛るもの多く、鮮人に対して或は迫害を加へ、或は逮捕して当署に同行するのみならず、内地人も亦鮮人と誤解せられて其迫害を受くるもの亦多し、是に於て翌三日管内在住鮮人百八十余名を保護検束するとともに(後略)」
(警視庁『大正大震火災誌』 p.1242・原文カナ)

警視庁『大正大震火災誌』は「国立国会図書館デジタルコレクション」で閲覧できる。

これが、世の中が落ち着いて以降の認識なのである。この大崎分署の報告のほか、流言に基づいて品川周辺で「暴徒鎮圧」に出動した軍部隊が、「鮮人襲来の報は全然虚報」という結論に達したことを記録する報告もある(歩兵第三連隊勲功具状、『現代史資料6』)。これらに加えて、さらには内務省警保局の後藤文夫局長の回想によっても、品川における「三百人位の朝鮮人が押寄せ掠奪したり爆弾を投じたりする」ような事態は否定されている。実際、「鉄砲や日本刀で掛る」朝鮮人を見たという住民の目撃証言も、震災直後のこの手の新聞記事をのぞいて、ひとつも残っていない。

9月6日と言えば、まだ震災直後の混乱期に属する。実際に起きていることは何か、多くの人がまだ理解できずにいた時期だ。「東京電気学校生徒西郷正秀君」はおそらくは数日前に東京を脱出したのであろう。遠く北海道の新聞が、裏を取ることもなく彼の談話を載せたのがこの記事だ。そして西郷君は、彼が事実だと考えている品川の状況を語ってはいるが、自らが目撃したことを語っているわけではない。果たしてこれが、暴動の実在を否定する記録や証言の厚みを覆すような証拠になりうるだろうか。工藤夫妻は、こうした疑問には何も答えていない。

ちなみに品川では、流言に端を発した迫害によって、立件されただけでも朝鮮人6人が重症を負い、日本人1人が殺されている。

横浜から朝鮮人数百人が来襲するという流言は、ほかに大森署や世田谷署の報告にも見ることができる。朝鮮人暴動流言が最も早く大規模に発生したのは横浜であり、避難民の移動にともなって東京に流れ込んだと見られている(吉河光貞『関東大震災の治安回顧』法務府審査局)が、横浜市から東海道を北上して東京に来るとき、品川はその玄関にあたる。品川で流言が盛んだったのはそのためだろう。付け加えておけば、警察もまた流言を数日間は信じ、拡散していたことが、多くの証言から分かっている。

証拠資料編 ◉ その4

【「証拠史料」編―工藤夫妻の示す「証拠」史料を検証する】

舞台は東京・音羽町なのに
なぜか横浜とカン違い

………… 要点 ………………………………………………………………

  • 文章の舞台は東京・音羽町なのに、これを一貫して横浜だと思い込んでいる。
  • (略)と示さない、隠された省略が2箇所ある
  • 原文の正確な理解を妨げる略し方をしている
  • 出典表記が不正直
  • 「朝鮮人の放火」の目撃証言とは言えない

…………………………………………………………………………………

工藤夫妻による引用(『なかった』p.57)
――――――――――――――――――――――――――――
「皆の視線は警察の方へと曲げられた。『あれ。泥棒が捕まへられて来た。』と老人が囁いた。私は『ハゝア。火事泥だらうな。』と思つて、気を附けて見ると、よく土方等の被つてゐるリボンも何もない鍔広のフェルト帽を被り、上は茶色の薄汚ないシヤツ一つで下に浅黄の汚れた小倉のズボンをはいた土方風の男が、若い人に右と左から手をとられて警察へ入る所だつた。後には警官がついてゐた。阿久津はすぐに席から駆け下りて様子を見に警察の中に入つていつた。しばらくして出て来て、『放火です。朝鮮人が放火したんです。』

放火と聞いて、私たちはゾツとした。又朝鮮人と言ふのを甚だ意外に思つた。私はカフエーの給仕だの、飴や筆を売りに来る行商人だのにいくらも朝鮮人を見てゐるが、いづれもおとなし相な人の良ささうな者許(ばか)りだつた。(略)
あれ/\と言ふ中に、又一人連れて来られた。【A】

『太い野郎だ。火つけ道具を持つてやがる。』と誰かゞ云ふ。成程彼の手には、五月のお節句にたべる熊笹で三角に長く包んであるちまきの様な恰好のものを持つてゐた。『大方(おおかた)綿に石油を浸した物か何かゞあの中に入つてゐるんでせう。恐ろしい事をするやつがゐるなあ。』それからは、後から後から捕へられて来た。【B】
その後に従いて来た私の知つてる少年が、『僕。彼奴の捕まる初めから見てゐたんだよ。彼奴八丁目の材木屋の倒れ掛つてゐる材木の中にもぐり込んで火を点けてゐる所を近所の子供に見付けられたんだ。中々捕まらないのをやつとの事で捕まへたんだよ。』と語つた。(略)
お向ふの家では、奥さんとお嬢さんとで雑巾を持つて板塀を拭いて居た。私は一寸それが不思議に思はれたので失礼とは思つたが立ち止つて見てゐた。奥さん達は私に会釈して、『まあ。恐ろしいぢやございませんか。これが放火のしるしなんですと。そんな真似をされちやたまらないから、今一生懸命消している所なんですよ』私はその印を見せて貰つた。英語のK といふ字を左向きに書いたやうな、得体の知れぬ符牒だつた。朝鮮の文字かも知れぬ、と後に成つて皆が云つてゐた。
私は先づ自分の家の塀をよく見たが、何も書いてなかつた。お隣りの塀を見ると、明らかに二個処までも書いであつた。私たちの声をききつけてお隣りの小母さんが家から出てきた。『小母さん。やられてますぜ』と私が云つたので、小母さんもびつくりしてその印を見てゐた」
          (生方敏郎『明治大正見聞史』1926)
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この引用には、工藤夫妻の資料の扱いのずさんさが端的に表れているので指摘しておく。その問題点は三つにまとめることができる。

第一の問題点は、中略の仕方である。この史料引用でも、(略)と示さない、読者には隠されている省略がある。当サイト側でその箇所を【A】【B】と示した。また、それだけでなく、(略)と明示されている箇所にしても、あまりにも省略されている部分が長すぎる。たとえば最初の(略)だが、「許りだつた。」と「あれ/\と言ふ中に」の間には、実は引用の始まりからそこまでの長さ以上に長いひとつの段落が、まるごと略されている。その上、「あれ/\と言ふ中に、又一人連れて来られた」の後の【A】部分には、その3倍の長さにわたって、(略)と示さない中略がなされている。

さらにそれに続く

「『太い野郎だ。火つけ道具を持つてやがる。』と誰かゞ云ふ。成程彼の手には、五月のお節句にたべる熊笹で三角に長く包んであるちまきの様な恰好のものを持つてゐた。『大方(おおかた)綿に石油を浸した物か何かゞあの中に入つてゐるんでせう。恐ろしい事をするやつがゐるなあ。』それからは、後から後から捕へられて来た」

の後の【B】部分では、またもや(略)と示さずにこっそりと省略が行われているが、その文章量は「太い野郎だ」から始まる上記の部分の1.5倍くらいの長さがある。


その後の、二つ目の(略)によって略されている文章の長さは、もっとひどい。「『やつとの事で捕まへたんだよ。』と語つた」で(略)と入り、「お向ふの家では」と再開されるわけだが、この二つの文章の間には、なんと工藤夫妻が引用している文章全部を合わせた分量の2倍ほどの長さの文章が隠れている。これでは、まったく別の文章を(略)でむりやりつなげているようなものだ。

省略するのがいけないというのではない。だが普通、そこまで離れている場合は、いったんカギカッコを閉じて、文章の別の部分の引用として続けるものである。原文に対する誤解を与えてしまう可能性があるからだ。

たとえて言えば
「おばあさんが川に洗濯に行くとドンブラコドンブラコと大きな桃が流れてきました。(略)桃太郎はすくすくと育って強い男の子になりました。【表示なしの略】犬はきび団子をもらい、桃太郎のお供になりました。(略)そして三人は宝物のおかげで幸せに暮らしました」
とするようなものである。もとの話を知らない人は、「三人」をおばあさんと桃太郎と犬のことだと思うかもしれない。原文への誤解を避ける配慮が全く感じられない。

二つ目の問題点は出典表示である。『関東大震災「朝鮮人虐殺」はなかった』巻末の参考文献一覧では、この引用部分の出典は「生方敏郎『明治大正見聞史』(中公文庫、1979年)」となっている。ところがなぜか、本文で引用する際には著者である生方の名前を出していない。それは単にケアレスミスかもしれないが、おかしいのは出典を中公文庫版と表記している点である。

というのは、かな使いを見れば、この引用が中公文庫版からのものではないことは明らかなのである。なぜか。中公文庫版は、工藤夫妻が引用しているような旧かな使いではなく、新かな使いに直されているからである。

たとえば引用の冒頭で「『ハゝア。火事泥だらうな。』と思つて」とあるが、中公文庫版では「『ハハア。火事泥だろうな』と思って」である。工藤夫妻の引用が旧かなになっている理由は、1926年に刊行された春秋社版からの引用であるからか、あるいはその春秋社版を引用し、収録している『現代史資料6』からの孫引きだからか、そのどちらかしかない。素直に考えて後者だろう。ではなぜ出典を『現代史資料6』と書かずに、中公文庫と書くのだろうか。孫引きであれば、直接の出典を併記するべきだ(ちなみにこの文章は、正確に言えば『明治大正見聞史』に収められた「大震災後記」からの引用ということになる)。

第三の問題点は、おそらくは第二の問題点に関係するのだろうが、もっと致命的なものである。この引用は、工藤夫妻の本のなかで、「崩壊した横浜グランドホテル」という小見出しの後ろに置かれている。「続いて横浜市民を恐怖に陥れたのは朝鮮人が襲撃するという情報だった」という本文に続いて引用が始まり、引用を終えた後は、「横浜港の海岸通(山下町)にある横浜グランドホテルは…」と続く。「崩壊した横浜」という節の大部分が、この引用に当てられている。つまり工藤夫妻はこの文章を、横浜における事例として紹介しているのである。

ところが、実は生方が書いた「大震災後記」の舞台は、横浜ではない。舞台となるのは、生方が住んでいた東京・音羽町(現・文京区)であり、文中に出てくる警察署とは大塚警察署のことなのである。そのことは中公文庫版で前後を読んでいれば分かるはずのことだ。東京の出来事を横浜の出来事として紹介しているのだから、これは、引用のまずさといった話ですまされない。

工藤夫妻は、生方の証言の舞台が横浜だと強固に思いこんでいるようで、彼らの本で繰り返し言及している。
「この談話(生方とは別の証言)の主にしても朝鮮人が放火したのを自身の目で見たわけではない…横浜で確認されたような証言と比べれば強度に欠ける」(『なかった』p.146)、「横浜で板塀に書かれた妙な符号を母娘で消していた主婦の話は第一章で紹介した」(同p.218)、「横浜に始まった例の奇妙な符号の謎ときである」(同p.257)。
無残としか言いようがない。史料の多くを『現代史資料6』に頼り切るのみならず、それすら落ちついて読んでいないからこういうことになるのだ。

さて、史料の内容の検証に入ろう。この文章が「何か」の目撃証言としての資格を持つのは確かだ。だが、すでに指摘したように、この引用は原文のところどころを切り取って、(略)や(略)なしの省略でつなげているため、実際には原文に描かれている情景が正確に再現されていない。本来であれば、略されている部分も含めて全文をご覧いただくのがよいのだが、略されている部分があまりに長いので、ここでは、略の多用によって見えなくなっているポイントのみを指摘しておく。

この文章は震災翌日の9月2日午後、東京の大塚警察署近くの路上で生方が見たことを書いたものだ。生方が、焼失地域の人々の大移動でごった返す音羽通りに立っていると、工藤夫妻が引用している、朝鮮人たちが警察署に連行されてくる場面になる。

工藤夫妻による、(略)や「隠し省略」を交えた引用で見えにくくされているのは、警察署に連行されてくる朝鮮人労働者が相当な数に上ったということだ。「私は二十四人迄は数へたが、それから先は数へつくされなかつた」と生方は書いている。また、(略)と示さない中略によって分からなくなっているが、少年が「僕。彼奴の捕まる初めから見てゐたんだよ」と言っているのは、労働者の中の一人で、ケガをしているらしく荷車で運ばれて来た男を指す。

工藤夫妻の引用で略されてしまっている文章の中には、詰襟姿の学生が連行されていく場面もある。誰かがそれを見て、「社会主義の火附けだ」と叫ぶが、後に、近所に住む早稲田中学の学生であることが分かる。その学生は、朝鮮人を殴る人々をとがめたために共犯者、「社会主義者」の疑いをかけられて連行されてしまったのである。このエピソードは、警察署前に集まる人々が根拠薄弱な流言を信じてパニックに陥っていることをうかがわせる重要なもののはずだが、工藤夫妻はこれを省略し、読者の目から隠してしまっている。

大騒ぎの中で、今度は「警察署の横手に火をかけようとしてマツチをすつていた男」が子どもにみつかり、たちまち群衆に取り押さえられる。生方は「日のかんかん当る真昼間、群集を前にしてのこの放火には、無鉄砲といはふか死物狂ひと云はうか、私達はたゞ呆れるの外はなかつた」と書いている。

生方は帰宅するが、路地にまで人が入って来ては、朝鮮人が逃げ込んだ、と騒ぐ。「時々刻々に目に見えぬ危険がこの町を襲うて来る様な感じがした」。そのうちに、工藤夫妻の引用部分にも出てくる符牒騒ぎが起こる。さらに生方のところに阿久津(生方の書生)が飛び込んで来る。「先生。大変です。もうどうしても、一刻も早く何処かへお逃げなさい。前の山に朝鮮人が三十人入つて、爆弾を持つて警察の巡査とここで戦争するのだ相です」。生方は、大袈裟なことを言うな、朝鮮人たちは刀もヤリも棍棒ももってないじゃないか、と反論するが、近所もみな避難すると知って驚き、結局は自分たちも避難を始めるところで、この「大震災後記」は終わる。

午後の数時間のうちに、あれよあれよと事態が高じていったわけである。関東大震災時のこの手の回想をいくらかでも読んでいる人であれば、ここに描かれているのは、当時しばしば見られた、幻想的な流言に右往左往する人々の姿だとピンと来るだろう。平時では信じがたいことだが、伝言ゲームによって「近所の公園で憲兵と朝鮮人が格闘している」といった類の幻想じみた流言が形成され、町内の人があわてふためいたといった類の話はいくらでも残っている。

この話にもそうした感触がある。労働者がそろって持っている「ちまきのようなもの」は本当に火付け道具だろうか。冷静に考えれば、警察が放火犯を連行する際に、犯行に使われた道具を容疑者の腰にぶら下げさせたままにしておくだろうか。犯人が数十人もまとまって捕まるというのもおかしいし、近所の野次馬と避難民でごった返すなか、警察署の裏手に火をつける男がいるというのも信じがたい話である。そして近所の中学生があっという間に「社会主義の火附け」にされてしまう顛末。朝鮮人30人が音羽町の山に立てこもっているという話に至っては、どう考えても荒唐無稽である。Kを左向きにしたような落書きは朝鮮語であり、放火を指示する符号に違いない、という話が馬鹿げていることは、もう説明の要もないだろう。

また、生方自身は連行されていく朝鮮人の姿しか見ていない。少年が「見た」のさえも、よく読めば朝鮮人が捕まる瞬間であって、「放火を見た」のは別の「近所の子ども」であることが分かる。朝鮮人が放火する場面は、直接は出てこない。結局このエッセイは、迫害される朝鮮人たちと流言に右往左往する人々の姿を記録した目撃証言ではあっても、朝鮮人による放火の目撃証言とは言えない。

実は、警視庁『大正大震火災誌』に掲載されている小石川大塚警察署の報告(p.1086)には、以下のようにある。

「九月二日の正午頃、不逞鮮人等暴行を為し、或は将に兵器廠を襲撃せんとするの計画ありとの流言始めて起こるや、民心之が為に動揺して自警団の発生を促し、更に鮮人に対する迫害行われたれば、本署は鮮人を検束するの必要を感じ、即日管内を物色して、八十五名を署内に収容せり」

警視庁『大正大震火災誌』小石川大塚警察署の報告(p.1086)
流言が広がる中、大塚署は管内に住む朝鮮人85人を事件性の有無と関係なく、無差別に検束し、署に連行した。生方らが見たのは「検束保護」として大塚署に連行されていく朝鮮人たちだったのだろう。もちろん、書生が警察署から戻ってきてから「放火です」と告げるのをみると、警察官自身もこの段階ではそうした流言を信じていた可能性はある。

いずれにしろ、警察署の前に立っていれば、85人の朝鮮人たちが次から次へと連行されてくる光景を当然、見ることになる。そして、巡査が引っ張っていく以上、何か悪事を行ったに違いないと考える人は少なくないだろう。その結果、放火をしたらしいというささやきが近所に広がるのも不思議ではない。そのうちに人々は精神的な恐慌に呑まれていったのである。

2015年2月23日月曜日

証拠史料編 ◉ その5

【「証拠史料」編―工藤夫妻の示す「証拠」史料を検証する】

単なる伝聞を
「朝鮮人一団に遭遇した恐怖の体験」と強弁


………… 要点 ……………………………………………………

  • 震災直後の談話記事/『現代史史料6』孫引き可能性が大
  • 朝鮮人迫害の目撃以外は全て伝聞にすぎない
  • 工藤夫妻は、単なる伝聞を「朝鮮人一団に遭遇」した「恐怖の体験」だと強弁している

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工藤夫妻による引用(『なかった』p.144)

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「時刻は二日の午前一時か二時頃である。徹宵して空腹と疲労を忍で日暮里の親戚を尋ねたが日暮里の半分は消滅してる。己むなく南千住から三河島に落延びた。同地方は火災はなかったが新発展地で新築家屋も建築中の家屋も将棋倒しとなっていた。私どもは三河島字町屋七二一の標札のある潰家に陣を取り休憩し、正午頃やっと食事に恵まれた。同夜十二時頃、鯨波(とき)の声がするのでビックリしたが南千住一帯を巣窟とせる鮮人団が三河島附近の煙火製造場を夜襲して火薬類を強奪し、婦女を凌辱し、食糧軍資金を掠奪するというので、在郷軍人、青年団が決死隊を組織し警戒中であると聞き、私どもは非常に恐怖し、妊婦を伴れて同夜は田圃の中に露宿して難を免れたが、仙台から青森に避難すべく日暮里に引返す途中二人の鮮人は撲殺され、一人の鮮人は電線に縛られ半死半生の体であった。また附近の墓場には扮装賎しからぬ年増婦人が鼻梁をそがれ出血甚しく、局部にも重傷を負ひ昏倒してゐたが、七八人の鮮人に輪姦されたという事で地方の青年団は極度に憤慨し、鮮人と見れば撲殺し、追撃が猛烈であった。鉄道線路は軍隊で警戒し、その通路を安全地帯とし仮小屋を建て、避難してゐるものが無数で、何れも鮮人の襲撃を恐れたためである」
(神田区淡路町二ノ四筑波館、山瀬甚治郎談『河北新報』大正十二年九月六日)
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これもまた、『現代史資料6』に収録されている記事である。

工藤夫妻によれば、この記事は「三河島で花火工場を襲撃した朝鮮人一団に遭遇し、その恐怖の体験を語った人物の記録」だそうである。だが、よく読めば、朝鮮人にかかわる内容のほとんどは、「というので」「と聞き」にかかっている。つまり、伝聞である。山瀬氏が確実に目撃したと思われるのは、「日暮里に引返す途中二人の鮮人は撲殺され、一人の鮮人は電線に縛られ半死半生の体であった」だけである。目撃ならぬ「聴覚」経験として在郷軍人や青年団が挙げるときの声も加えてもいいだろう。

一方、「附近の墓場には扮装賎しからぬ年増婦人が鼻梁をそがれ出血甚しく、局部にも重傷を負ひ昏倒してゐた」というのが目撃したものか伝聞なのかは微妙である。婦人を実見しているとも読めるし、説明の全てが「青年団は」にかかっている、つまり伝聞とも読める。いずれにしろ、「鮮人に輪姦されたという事で」とあるから、強姦の現場を見ていないのは確実で、朝鮮人による強姦という事実をこの記事に見出すことはできない。

つまり、この記事は、「三河島で花火工場を襲撃した朝鮮人一団に遭遇し、その恐怖の体験を語った人物の記録」ではない。見てきたとおり、実際には山瀬氏は一人の朝鮮人にも「遭遇」していない。まともに読めば分かることだ。「はじめに」でも指摘したように、工藤夫妻はこうした論法(?)を多用している。

もちろん、朝鮮人が三河島の花火工場を襲撃したなどという公式記録はもちろん、目撃証言すらも存在しない。あるのは震災直後の流言記事だけである。

2015年2月21日土曜日

証拠史料編 ◉ その6

【「証拠史料」編―工藤夫妻の示す「証拠」史料を検証する】


市民が恐怖におののいていた以上、
朝鮮人襲来は真実??



………… 要点 ………………………………………………………………

  • 震災直後の談話記事であり、『現代史資料6』孫引き可能性が大。
  • 「証拠としてはやや弱い」が、市民が恐怖におののいていたのだから事実である……という意味不明の “論理” 。
  • 地元の下谷区役所は恐慌の原因を「仮想幻想的流言」によるものと総括している。

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工藤夫妻による引用(『なかった』p.145)

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「川口町の混雑は実に名状すべからざる有様で、避難民は大群を成して押し寄せてくる。川口町から徒歩で赤羽まで行くと此処にも避難民が一ぱいでとても通れない程だ。空腹を訴ふる子供や足を挫いた婦人、重傷と飢餓とに死にかかつてゐる男など救ひを求めてゐる。(略)やつと上野に着いて山に登つてみればまるで焼石の河原のやうだ。僅(わずか)に浅草の観音様や大建物の鉄筋のみが見えてゐる。青年団、軍人分会、自警団員等はいずれも刀鉄棒樫木棒を持つて警護に任じてゐる。なんでも地震後の火災は左程でもなかつたが、一日夜から不逞鮮人が随処に放火し、上野の如きも朝鮮婦人が石油をまきそれに鮮人が後から爆弾をなげた為めなさうで、罹災民の鮮人を憎むことは迚(とて)も想像以上である。この附近の人達は岩崎邸に避難したのであるが、邸内の井戸に毒薬を鮮人に投ぜられたので非常に困つて居る。それで、四日午前には万世橋で七人、午後には大塚で二十人、川口で三十人の不逞鮮人隊が捕縛され、その一部は銃殺されたといつてゐた」
(渋谷東北大学書記談『河北新報』大正十二年九月六日) 
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これも、『現代史資料6』に掲載されている記事である。

東北大学の書記による東京見聞記だ。鉄道は川口駅までしか復旧していなかったので、彼はそこから徒歩で東京に向かった。一読して分かるように、朝鮮人に関わる部分はすべて伝聞。工藤夫妻自身もそれは分かっているようで、この引用に続いて「この談話の主にしても朝鮮人が放火したのを自身の目で見たわけではない」「岩崎邸井戸への毒薬投入についても同様である。上野の町中の混乱状態のさなかに彼が耳で聞いたに過ぎないことは証拠としてはやや弱い」としている。その通りである。「やや弱い」というよりは、朝鮮人に関する部分は、彼が耳にしたうわさを報告しているにすぎないと読むべきだろう。

ところが、工藤夫妻はその直後に信じがたい「結論」を導き出すのである。
「だが、上野に来るまで多くの犯罪を繰り返しながら一団となって市中を襲っていた経緯を聞いていれば、自警団の血相が変わり、市民が恐怖におののくのは当然のことである。常識的にはこの談話が目撃証拠ではないとはいえ、ありのままを伝えている可能性が高いと思われる」
意味がまったく分からない文章である。「上野に来るまで多くの犯罪を繰り返しながら一団となって市中を襲っていた経緯を聞い」たのは誰なのだろうか。続く言葉を見る限りでは、自警団や市民であるようだ。だとすると、この文章で主題になっているのは、「経緯」が事実かどうかではなく、自警団や市民の「認識」だということになる。確かに、“朝鮮人が多くの犯罪を繰り返しながら一団となって市中を襲っているぞ”と耳にして、それを信じ込んだのであれば、自警団が血相を変えるのは「当然のこと」だろう。だとするとこの文章は、自警団の気持ちを説明した文章なのだろうか。

そう思っていると後半では、「常識的にはこの談話が目撃証拠ではないとはいえ、ありのままを伝えている可能性が高いと思われる」と続く。どうもこの談話が伝える上野への放火などが事実である可能性が高いと言いたいらしい。自警団が上野への放火を事実だと信じて血相を変えたことが、どうして放火の噂が「ありのままを伝えている」根拠になるのか。

Aは事実である、なぜならBさんがそれについて血相変えて怒っているから―という論理が果たして成り立つだろうか。カン違いや誤解によって誰かに腹を立てることなど、日常のなかで誰もがしばしば経験する、ありふれたことではないのか。

それとも後半の「ありのまま」とは、朝鮮人の放火のことを指すのではなく、そうした浮説に右往左往したり、血相を変えて朝鮮人を銃殺したりした人びとがいたという状況を「ありのままに伝えている」という意味なのであろうか。実は、『なかった』には、このような、主語も主題も論理展開も判然としない文章が非常に多い。

では、実際には当時、上野はどんな状況だったのか。地元の下谷区役所がまとめた文書があるので見てみよう。
「わが区に於ては二日、午前四時頃突如として『不逞鮮人今次の大災を好機至れりとして、予て用意の爆弾を投擲し、或はまた毒素を飲料水、菓子等に混入して飢渇に喘ぐ市民を燼滅せんとはかる』の仮想幻影的流言が飛んだかと思ふと、次の瞬間には早や『精養軒の井戸水変色す』『上野公園下の井戸水異常あり』『博物館の池水変色して金魚皆死す』などと続々所轄署に届出があつた。依つて直ちに急行試験するに何等の異変をも認められない。為めに之が事実無根を掲示すると共に、制服巡査を派して民衆をして安堵せしめ、その混雑を整理するといふ有様であつた。
夜に入つては更に『鮮人二人いとう松坂屋呉服店へ二個の爆弾を投じて発見逮捕され、取調の結果賞金をさへ所持す』とか『二日夜半の北大門町の火は社会主義者か鮮人かわからぬが、投弾者らしい者が路次より飛出した所を、群衆に殴殺された』とか『上野駅で二名の鮮人ビール瓶の石油により放火中発見されこれ亦(また)殴殺された』とかいふやうにあらゆる方面から尤(もっと)もらしい流言が飛び、遂には『鮮人警官に変装して出没してゐるから警察官とて油断すな』といふ言語に絶するものさへ飛んだ」
東京市下谷区役所『下谷区史附録大正震災志』(1937年刊)


下谷区役所も、人々が血相を変え、恐怖におののいた様子を事実として伝えているわけである。だが下谷区役所は、工藤夫妻のように「人々が血相を変えたから事実」とは主張していない。人々の恐怖の原因を「仮想幻影的流言」と総括している。井戸を調べたが何も検出されなかったのだから当然だろう。

1923年9月1日から1週間ほどの上野で何が起きたのかを本当に知りたいのであれば、震災直後の談話記事に真相を求めるのは間違っている。なぜなら、当時はまだ混乱が続いており、いったい何が起きているのか、はっきりしたことは誰にも分からない有様だったからだ。混乱の中で話され、書き留められた談話記事と、世の中が落ち着き、事態の全貌がはっきりして以降(翌月以降)にまとめられた記録や証言のどちらが実相に近いと考えるべきか、言うまでもないだろう。それでもなお、工藤夫妻が、この下谷区役所の記述の方が誤りなのだと主張したいのであれば、それなりに強力な反証をそろえてみせなければならないはずだ。混乱のさなかに書かれた震災直後の談話記事を次々とせわしげに示すだけでは、それは無理というものである。

ちなみに当時、上野公園は避難者であふれかえっていた。そこでは様々な流言が飛んだようである。作家の佐藤春夫もまた、自警団として動員され、幻の朝鮮人襲来に振り回されていた。そして、こうした流言によって起きた朝鮮人迫害の様子を目撃した証言も、いくつも残されている。

2015年2月19日木曜日

証拠史料編 ◉ その7

【「証拠史料」編―工藤夫妻の示す「証拠」史料を検証する】

朝鮮人が出てこないのに
「朝鮮人の襲来からようやく逃れた」経験と
強弁

………… 要点 ………………………………………………………………

  • (略)と、隠された省略が、合計で8箇所も散りばめられている。
  • 朝鮮人が一人も出てこない証言を「朝鮮人の襲来からようやく逃れた」恐怖体験と強弁。
  • 原典を読めば、筆者が流言が事実ではないことを理解するに至っていることが分かる。

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工藤夫妻による引用(『なかった』p.147)
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「(二日)自分はまだはつきりと覚めやらぬ眼をこすりつつ『何だ』と言ふと妻は「○○が攻めて来たそうです」と震へ乍ら答へる。【A】自分の住んで居る所から五六町も隔つた処に大仏(注・現品川区大井)と云ふお寺がある。野中の一ツ家で東京からの遊楽散歩には丁度宜い箇所になつて居る。それが近頃土地熱、住宅熱にうかされて附近の丘陵や松林を漸次切り開いて埋立地を作つて居る。之に従事して居る土工は全部○○である。彼等は遊楽の婦人にからかう、悪戯をする、折角好ましき此遊楽地も○○の働く様になつてからはすつかり恐怖の土地となつて仕舞つた。(略)果せるかな、妻は自分に彼等の襲撃を告げた。自分の宅は小高い山の上に在る一千坪の一廓が三つにしきられて、私は其一廓の一隅を占めている。此一廓の周囲は凡(およ)そ生垣(いけがき)で更に此の一廓に続ひて五六百坪宛の空き地が二つある。(略)ことある場合の避難地としてはまことに適当な個所である。それを認めてか、自分が妻に揺り起こされてまだ身仕度も整へぬ聞にもう附近の人達が続々と自分の家目指して避難のため押寄せて来た。
二日神戸発の某船の船長の一家族もあれば、其船で官命を帯びて渡航した某省の某高等官の家族もある。小学校の女教員、今年某大学を出て初めて家庭を持つた若夫婦、常には言葉も交わさなかつた妾(めかけ)生活をして居る町の角に住んで居る女すら此中に交つて居た。総勢二十五六名、婦人、子供、お婆さんが多くて男性は僅か四五人である。【B】さうして集まつた人達を最も安全なる避難ケ所として地続きの空き地へと導いた。【C】生茂(おいしげ)る叢(くさむら)や茫(すすき)の中にすつぽりと姿を隠さしめた。其場合、勢ひ自分は指揮官たらざるを得ぬ、自分は『若(も)し○○が掠奪を目的とするならば、全然無抵抗で行きませう。併し多少でも生命に危害を加へる様な形跡があつたならば、私達は婦人子供を先々逃がし乍(なが)ら出来るだけ抵抗を続けて逃げませう』と宣告した。【D】巡査の一人があご紐をかけて、自転車に乗つて駈けて行く。それを把えて『どんな形勢ですか』と-訊ねると彼は「今○○の数三百人程が団体を作つて六郷川で青年団や在郷軍人団と闘つて居る。其中の五六十人が丸子の渡し附近から馬込に入り込んだと云ふ情報がありました、そうして毬子を渡つた処で十五六人女や子供を殺したさうです。皆さん警戒して下さい」と叫び乍らどこかへ飛んで行く。
自分はこれは誠に容易ならざる事と思つた。(略)警鐘の響が四方八方から起る。ワー つと言ふ様な賊声がどこからか聴こえる【E】」
          中根栄談『福岡日日新聞』、大正十二年九月二十三日。 
               伏字部分は他の関係資料によれば朝鮮人を指す蔑称が入る
――――――――――――――――――――――――――――

以上、最後の( )内の説明も含めて、工藤夫妻による引用である。工藤夫妻は明記はしていないが、この記事も『現代史資料6』からの孫引きである。福岡日日新聞に当たってみると、実際には23日朝刊ではなく、22日の夕刊に掲載されたものであることが分かる。

『なかった』本文では、この引用には「大森の高台に広大な敷地を持つある夫婦は、近所の住民多数を自宅の庭に招じ入れ、朝鮮人の襲来からかろうじて逃れた」と説明がつけられている。実はこの中根栄という人は、日本電報通信社の役員で、『戦線の軍犬クラウ』という著書もある愛犬家としても知られる当時は有名な人物だ。

さらに、この記事にも(略)と示さずにこっそりと省略を行なっている箇所がある。その数なんと5箇所。当サイト側で文中に【A】【B】【C】【D】【E】とその場所を示した。このほかに(略)と明示している中略が3箇所ある。合わせて8箇所。ここまで来ると異様である。

工藤夫妻が(略)や、(略)と示さない省略によって隠蔽しているのは、一つには中根栄氏がもともと朝鮮人への偏見と思い込みを強く持った人物であったという事実だ。たとえば三つ目の(略)で略された部分には、読んでいてうんざりするような差別的な視線が見られる。
「体格のいい○○の壮漢が垢と埃(ほこ)りに汚れた労働着を纏(まと)ふて凶器を手に血と性に飢えた叫び声を挙げつつ生垣を破つて自分の団体(女性たち)に襲ひかかる姿がまざまざと現はれる」。

もう一つには、「朝鮮人暴徒が迫ってきている」という中根氏の認識に根拠が薄弱である事をうかがわせる記述をこっそり略している。【B】で略された部分にはこんな一文が含まれている。
「此くする中に○○が来たと云ふわめきが方々から聴こえる。或ものは直ぐ眼の前に来たやうにも伝へるのである」。
震災時の回想にしばしば出てくる、幻覚じみた流言拡散の様子そのものだ。三つ目の(略)で略された文章の中には、「警官が云ふ処であるから嘘ではないと信じた」という一文がある。逆に言えば、警官の呼びかけ以外に根拠がなかったということだ。

三つ目には、これが最も重要なのだが、中根氏と住民たちの恐慌がどのように終わったのかを隠蔽していることだ。【E】で略されているのは以下の一文である。
「こうした恐ろしき時間を二時間余りも叢(くさむら)の中で過ごしたのであった」
これが、原文の最後の一文である。つまり、結局、何も起きずに、彼らはくさむらを出て行ったのである。いかに彼らがあやふやな噂に怯えていたかが伺えるのである。

細かい中略を8箇所も重ねることによって、この記事を読解するうえで重要な要素が切り捨てられてしまっているわけだが、それを再現して通読してみれば、この記事に描かれているのは、「朝鮮人暴徒が襲来する」という流言に怯えて避難した人々の姿であり、それ以上でもそれ以下でもないことが分かる。いかなる意味でも「朝鮮人暴動」の描写ではないし、その実在の証拠にもなりえない。朝鮮人が一人も出てこないのだから、当たり前である。

ところが工藤夫妻は、この記事の引用について、「朝鮮人の襲来からようやく逃れた」「この記録は幸いにも自身が朝鮮人から直接攻撃を受けたわけではない。だが尋常ならざる恐怖を附近住民と共に経験し、警官もそれに加わって異常な状況が生み出されていた」とまとめている。

奇怪なまとめである。「幸いにも自身が朝鮮人から直接攻撃を受けたわけではない」も何も、この記事には、直接だろうが間接だろうが「朝鮮人の攻撃」なるものが実在したことを示す内容は含まれていない。それとも、人々がそう信じていたのだから検証の必要もなく事実なのだ、とでも言うのであろうか。「『証拠』引用その6」(当ブログに後日掲載)と同様、ここにも“Aは事実である、なぜならBさんがそれについて怒っている(あるいは怖がっている)から”という“論理”が見て取れる。

朝鮮人暴徒が今にも押し寄せるという知らせにおののいたが、結局誰も現われなかった―という証言であれば、それこそ無数に残っている。当時の人々は、こうした経験を通じて、一、二週間もすぎる頃には朝鮮人襲来は事実ではないと悟ったのである。にもかかわらず、この手の証言を「幸いにも自身が朝鮮人から直接攻撃を受けなかった」証言だと強弁するのであれば、当時の東京はそうした幸いな日本人であふれかえってしまうことになる。

工藤夫妻がもし、「朝鮮人暴動」の実在を示す証拠を見せたいのであれば、「幸いにも自身が朝鮮人から直接攻撃を受けなかった」証言ではなく、“不幸にも朝鮮人から直接攻撃を受けた”人の証言を示すべきだろう。だが、工藤夫妻は震災直後の流言記事以外にはそんなものを一つも示せていない。

そもそも、こんな読み方をされて驚くのは中根栄氏本人に違いない。というのは、実はこの記事は中根栄氏による「震害の体験」という連載の第6回であり、続く第7回(9月25日付掲載)では草むらを出た中根氏たちがその後どうなったか、どのような認識をもつに至ったかが書かれているからである。これは、『現代史資料6』には収録されていないので、福岡日日新聞に直接当らないと読めないものだ。

工藤夫妻が引用した「震害の体験」連載第6回に続く第7回では、中根氏は草むらを出て、情報収集のために町に向かう。その結果、彼は何を理解したか。
「流言飛語飛ぶが如くに伝はつたがそれらしいものは一向に姿を見せなかつた」「逢ふ人毎に情報は如何デスカと尋ね合ふのであるが凡(すべ)ていい加減な事を伝へるばかりデ一(ひとつ)として真を掴むに足るものはない」「兎に角(とにかく)集め得た情報では大したことではないらしい」。
要するに、朝鮮人暴徒が迫っているなどという事実はないということを、中根氏もようやく悟るのである。中根氏はすぐに帰宅すると、彼の元に避難している近隣住民に「成るべく安心させる様に各種の情報を語り聴かせた後、各自の自宅へ引揚げさせ」たのであった。この連載「震害の体験」は、9回(9月26日夕刊)まで続くが、第6回の後、中根氏は一度も「朝鮮人の襲撃」について言及もせずにこれを終えている。

一体これのどこが、「朝鮮人の襲来からようやく逃れた」(『なかった』p.147)経験なのだろうか。

警視庁『大正大震火災誌』の「流言の発生」中には、2日午後2時5分ごろに確認された流言として、「横浜方面より襲来せる鮮人の数は約二千名にして、銃砲、刀剣等を携帯し、既に六郷の鉄橋をわたれり」「既に多摩川を渉りて洗足村及び中延附近に来襲」といった、工藤夫妻引用の記事とほとんど同じ内容のものが記録されている。

また、9月15日付の読売新聞の記事では、警視庁の木下刑事部長が「流言に驚いて横浜東京間就中(なかんづく)六郷附近などで無暗に警鐘を打つたりしたのが流言を産むの結果となつたものである」とコメントしている。この地域が東京のすべての流言の源流だと言うことはできないだろうが、それほどにこの地域での流言がひどかったことは確かである。「『証拠』引用その3」(後日掲載)で触れるように、流言は横浜から北上したから、東海道沿いのこの地域で流言が盛んだったのは不思議なことではない。

2015年2月18日水曜日

証拠史料編 ◉ その8

【「証拠史料」編―工藤夫妻の示す「証拠」史料を検証する】


捜査が始まったという記事が
「放火の証拠」?


………… 要点 ………………………………………………………………

  • 警察出動の時点の報道だけを切り取って「朝鮮人の放火」の「証拠」に仕立てている。
  • 記事に登場する警視庁幹部の正力松太郎自身をはじめ、警察自身が否定している 。

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工藤夫妻による引用(『なかった』p.152)
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「不逞鮮人各所に放火―帝都に戒厳令を布く

「一方猛火は依然として止まず意外の方面より火の手あがるの点につき疑問の節あり、次で朝鮮人抜刀事件起り、警視庁小林警務長係外特別高等刑事各課長刑事約三十名は五台の自動車にて現場に向つた。当市内鮮人、主義者等の放火及宣伝等頻々としてあり」
(『東京日日新聞』大正十二年九月三日) 
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「刑事約三十名」は誤りで、原文では「刑事約二十名」だが、これは書き写した際の単なるケアレスミスだろう。

この記事は、『なかった』p.152~158にかけて、朝鮮人の放火が実在したことの証拠として掲げられた三つの記事の最初の一つである。震災当時広まった「朝鮮人の放火」という流言全体については、いずれ「放火」の項でまとめて論じるので、ここでは、上記の記事の内容の検証だけをすませておく。

最初に、この記事の扱いの奇妙さを指摘しなくてはならない。

この記事は、実際にはかなり長い記事の一部である。その全文は『なかった』p.171であらためて引用されている(当ブログでは「証拠史料編その12」として取り上げ、検証している)。もちろん、同じ記事を繰り返し引用すること自体は何の問題はない。しかし工藤夫妻のこの引用の場合、奇妙な点が二つある。ひとつは引用されている記事の見出しが微妙に違うこと。このp. 152では「不逞鮮人各所に放火―帝都に戒厳令を布く」となっているが、p. 171では
「不逗鮮人各所に放火し
帝都に戒厳令を布く」
としている。改行のあるなしと、文言の一部が「放火―」と「放火し」という具合に異なっている。原文を見ると、実際は後者、p. 171の引用が正確だ。

もうひとつの奇妙な点は、p. 171では、記事本文のうち、p. 152で引用した部分だけを、まるで、くり抜くように、(略)と示して省略していることである。それによって、両者が同じ記事であることを分かりにくくしている。この部分はそんなに長くないのだから、略さなくてもよいのではないかと思うが、その意図は謎である。二つの別の記事のように見せかけたかったのであろうか。

さて、ここでは工藤夫妻のp. 152での引用部分の内容について検証する(「朝鮮人抜刀事件」については「『引用』証拠その12」で)。上の工藤夫妻の引用の仕方では文意が分かりにくいので、夫妻が引用を止めた後まで含めて、もう一度原文を引用する。工藤夫妻としては朝鮮人の放火の疑いで実際に警察が動いたことさえ示すことができればそれでいいのだろうが、警察が調べて最終的にどういう結論を出したのかを理解してもらうには、以下のようなまとまりで読んでいただく必要がある。
「一方猛火は依然として止まず意外の方面より火の手あがるの点につき疑問の節あり、次で朝鮮人抜刀事件起り、警視庁小林警務長係外特別高等刑事各課長刑事約二十名は五台の自動車にて現場に向つた。当市内鮮人、主義者等の放火及宣伝等頻々としてあり、二日夕刻より遂に戒厳令をしきこれが検挙に努めている。因(ちなみ)に二日未明より同日午後にわたり各署で極力捜査の結果午後四時までに本部富坂署で六名、麹町署で一名、牛込区管内で十名計十七名の現行犯を検挙したが、いづれも不逞鮮人である」。
「警視庁小林警務長係外特別高等刑事各課長」とは、警視庁本庁の小林警務課長と特高課や刑事部の課長たちということだろう。事実であれば、課長クラスがそろって動くのだから、警視庁としての指示に違いない。実際、この記事に書かれた内容と符合する記憶を、当時、警視庁官房主事(警視総監に次ぐ地位の幹部)であった正力松太郎が振り返って語っている。 

正力松太郎の回想(「米騒動や大震災の思い出」読売新聞社1944年2月)

これを読むと、上の記事中に出てくる小石川富坂署に拘留されていた朝鮮人6名については、正力本人が出向いて調べたことが分かる。そして調べるほどに「犯罪事実はだんだん疑わしく」なったようである。そして正力は、2日の夜には「(朝鮮人の)来襲は虚報」という結論に至ったと語っている。

警視庁『大正大震火災誌』の小石川富坂署の項にも「放火準現行犯人なりとて、鮮人を拉致して同行し来るもの亦多し、依りて即日其取調を開始したれども、皆事実にあらざりき」とある。ただし、少なくとも9月2日の1日間には、正力や警視庁幹部たちは流言を信じていたと思われる。

震災翌日の9月2日は、朝鮮人暴動の流言が一挙に拡大した日である。警視庁の震災総括『大正大震火災誌』(1925年刊)の各署からの報告を見ると、どこの署でも、放火などの犯罪を行なったとして朝鮮人が次々と警察署に連行されてきたことが記されている。では彼らは実際に犯罪を行っていたのだろうか。それについては、戦後まもなくに吉河光貞検事がまとめた『関東大震災の治安回顧』(法務府審査局、1949年)中の「警視庁刑事部捜査課の活動状況」の項に記述がある。
「而して同日(2日)夕刻頃から不逞鮮人暴動襲来の流言盛んに行はれ、前述の如く各警察署から不逞鮮人の放火、井戸投毒其の他各種犯罪発生の報告が殺到するに至つたので、多数の課員は赤坂、四谷、麹町、芝、牛込、小石川等諸方面に出動して之が内偵捜査に当つたが、(警視庁本庁の)残留課員は自警団等が同行して来た鮮人百六十八名の収容に従事し、翌三日早朝から同課員総動員にて其の取調を開始して不逞鮮人に関する各種流言の虚実究明に努めたが、殆んど犯跡の認むべきものなく、総て流言の無根なるを闡明(せんめい)する結果となつた」(p.203) 
工藤夫妻が引用している記事が伝えているのは、吉河検事が記述している警視庁の各署への内偵のことなのだろう。記事中の「本部富坂署で六名、麹町署で一名、牛込区管内で十名計十七名」という朝鮮人の逮捕者も、この日、住民自らが警察署に連行してきたり、あるいは住民の訴えを受けて警察が連行した者たちと思われる。実際には、東京全域で17人ではすまない大量の朝鮮人が捕らえられた。そして相当な人数を取り調べても、結局、犯罪を見つけることはほとんどできなかった。工藤夫妻が引用する記事中に出てくる「五台の自動車にて現場に向つた」刑事たちがたどり着いた結論は、そういうものだったのである。ちなみに9月15日付の読売新聞には、「警視庁木下刑事部長はもちろん実際捜査の任に当つた小泉捜査課長も『朝鮮人にして日本人を殺した者は一人も無い』と断言している」という記述もある。

住民の訴えを受けて朝鮮人を逮捕し、取調べたが、犯罪事実は認められなかった―。まとめるとこういうことになる。そして工藤夫妻が引用している新聞記事は、こうした取調べの顛末が判明する前の時点で書かれているものだ。誤認逮捕の時点で捕らえられた人を犯人視した記事のようなものである。

こうした記事を検証なしに「証拠」とする工藤夫妻のやり方に、工藤夫妻の「証拠」の提示の仕方の典型を見ることができる。逮捕したが調べてみたら犯罪事実がなかった、という話から、「逮捕した」という時点のものを切り取ってきて、恐ろしい犯罪があったかのように印象づけるだけで、検証もせずに次に飛び移るのである。もし誰かが、1994年の松本サリン事件当時の新聞をいま持ち出して、「犯人はオウム真理教ではなく、ある会社員だ。これを読めば一目瞭然だ。当時の新聞はどれもそう示唆している」と主張したらどうだろうか。誰もが、その人の誠実さか知性のいずれかを疑うはずだ。事実を知りたいのであれば、最終的に判明した事柄の全体を吟味するべきだろう。

われわれは1923年9月2日ではなく、その90年後に生きているのだから、彼らが実際に放火犯人だったのか、という視点で当時の記録を検証できるはずである。工藤夫妻は、そういう当たり前の検証を行う代わりに、連行時点の記事だけを切り取り、連行されたことによって朝鮮人が放火犯であったことは確定したかのように読者をミスリードしているのだ。

2015年2月17日火曜日

証拠史料編 ◉ その9

【「証拠史料」編―工藤夫妻の示す「証拠」史料を検証する】

地元警察署が
「朝鮮人の放火」を否定している


………… 要点 ………………………………………………………………

  • 震災直後の混乱期の記事である。
  • 地元の警察署は「朝鮮人を取り調べたが、放火は流言にすぎなかった」と総括している。

…………………………………………………………………………………

工藤夫妻による引用(『なかった』p.153)
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「火に見舞はれなつたが(ママ)唯一の地として残された牛込の二日夜は不逞鮮人の放火及び井戸に毒薬投下を警カイする為めに青年団、在郷軍人団及び学生の有志レンは警察官軍隊と協力して徹宵し横丁毎に縄を張つて番人を附し通行人を誰何する等緊張し、各自棍棒、短刀、脇差を携帯する等殺気が漲(みなぎ)り、小中学生等も棍棒をたづさへて家の周囲を警戒し、宛然(注・あたかも)在外居留地に於ける義勇兵出動の感を呈した。市ケ谷各町は麹町六丁目から平河町は風下の関係から火の粉が雨の如く降り鮮人に対する警戒と火の恐れで生きた心もなく戦場さながらの光景を呈した。牛込佐土原町では二ケ所に於て鮮人放火の現場を土佐協会の大学生数名が発見、直ちにもみけした。又三日朝二人づれの鮮人が井水に猫入らず(ママ)を投入せんとする現場を警カイ員が発見して直ちに逮捕した」
(『東京日日新聞』大正十二年九月四日)

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朝鮮人の放火の証拠と示された記事の2つ目である。「井水」とは、井戸の水のこと。

朝鮮人関連する記述は、牛込佐土原町で朝鮮人の放火現場を「土佐協会の大学生」が取り押さえたという話と、3日の朝、2人の朝鮮人が井戸に猫いらずを入れようとした現場を「警カイ員」が取り押さえたという話の二つ。

警視庁『大正大震火災誌』に収められた牛込早稲田警察署の報告は、9月2日のこの地域の状況について以下のように書いている。
「管内は、九月二日午前十時前後に於て『不逞鮮人等の放火・毒薬物撒布又は爆弾を所持せり』等の流言あり」「所謂自警団の成立を見るに至り、鮮人の本署に拉致せらるるもの少なからず」
午後には朝鮮人が民家に放火するとの流言が広がり、早稲田方面ではこれを恐れて避難する人も少なくなかった。こうした状況を受けて警察署長は現地に赴き、こう演説している。「本日爆弾を携帯せりとて同行せる鮮人を調査するに爆弾と誤解せるものは缶詰、食料品に過ぎず、其の他の鮮人も亦(また)遂に疑ふべきものなし、放火の事、蓋(けだ)し訛伝(流言)に出づるなり」。

「其の他の鮮人も亦遂に疑ふべきものなし」とあるから、住民が連行してきた朝鮮人を調べても、放火の事実を確かめることはできなかったことになる。つまり、だいぶ後に震災総括として書かれた牛込早稲田警察署の報告は、工藤夫妻が引用する9月4日の記事の内容を完全に否定する内容になっているのだ。

「朝鮮人が放火した」という流言についてはテーマ別検証編の「放火」の項でくわしく解説するが、警視庁管内全域で、9月中の放火は25件。その内訳は個人的怨恨が多数でほかはいたずら。朝鮮人は「軽微なる未遂罪二件を算するのみ」(警視庁『大正大震火災誌』1925年)で残りは日本人である。朝鮮人で放火の罪で起訴された者は一人もいないので、この2件も起訴はされなかったということになる。彼らが実際に放火しようとしていたかどうかもあいまいだ。あるいはそもそも検挙されていない可能性もある。「朝鮮人が火をつけているのを見ました」という訴えを受理したのみ、ということである。

井戸に毒を入れた、あるいは入れようとした、という公式記録も残っていない。井戸に毒を入れるという流言についても「井戸」の項でまとめて説明するが、東京でも横浜でも、井戸を調べて毒が検出されたという公式記録は一つも残っていない。震災直後の流言記事以外には、「この目で見た」という目撃証言も残っていない

横浜では、井戸に毒を入れようとしていると誤解されて殺された朝鮮人の記録が残っている。
「九月三日夜、中村町植木会社構内避難民、附近井戸毎に覗き居たる一鮮人を発見し、毒物を投入せるものと信じたる附近住民は激昂の余り、殴打殺害せる事実あるも、毒物を投入したるや否や判然たらず。其後該井水を使用しつつあるも、何等異状なきに見るも、全く毒物の投入にあらずして、渇を覚え水を飲まんとして、井戸を覗けるものと思惟せらる」
(神奈川警備隊「鮮人の暴行に関する実跡調査報告」『横浜震災誌』) 

牛込の「猫いらず」投入も同様の誤解であった可能性がある。だがそれ以前に、この記事に登場する「土佐協会の学生」とか、「猫いらず」といった具体的な記述さえ、どこまで事実を伝えているのか、不確かであると言わざるを得ない。

第一に、当サイトのトップページで説明したとおり、震災直後の新聞記事は、まともな取材を行なっていない(できない)ものが多いからである。第二に、この時期には、まったく根拠のない流言が妙な具体性を帯びて広がるという現象がしばしば見られるからである。先の神奈川警備隊報告にも、○○町××地区の傘製造業者の家にアメ売りの朝鮮人が放火したという非常に具体的な噂があったので調べてみると全くの事実無根であった、という話が出てくる。震災から10日ほどの時期の新聞記事を、“新聞だから事実が書いてあるに違いない”とナイーブに読んではいけないのである。

ところが、「その8」で指摘したように、工藤夫妻は実際にこうした放火があったかどうかを検証するのではなく、こうした記事を検証もせずに、無前提に、“書いてあるから事実”として読者に提示しているだけなのである。だが、先に示したように、住民が連れてきた朝鮮人を取調べた地元の警察署が、犯罪事実は認められなかったと報告しているのだ。工藤夫妻は、この報告との矛盾を吟味しようとすらしていない。

工藤夫妻は『なかった』の冒頭で、「あらゆる史料の再検証」を行うと宣言しているが、彼らは「あらゆる史料」どころか基本的な史料も検証していないし、やっていることの内容も「検証」の名に値しない。