このブログについて

このブログは、工藤美代子/加藤康男による「関東大震災時の朝鮮人虐殺を否定する本を検証するために、

「民族差別への抗議行動・知らせ隊+チーム1923」が作成するものです。

初めてご覧になる方は、入門編「はじめに」からお読みください。

2015年2月19日木曜日

証拠史料編 ◉ その7

【「証拠史料」編―工藤夫妻の示す「証拠」史料を検証する】

朝鮮人が出てこないのに
「朝鮮人の襲来からようやく逃れた」経験と
強弁

………… 要点 ………………………………………………………………

  • (略)と、隠された省略が、合計で8箇所も散りばめられている。
  • 朝鮮人が一人も出てこない証言を「朝鮮人の襲来からようやく逃れた」恐怖体験と強弁。
  • 原典を読めば、筆者が流言が事実ではないことを理解するに至っていることが分かる。

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工藤夫妻による引用(『なかった』p.147)
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「(二日)自分はまだはつきりと覚めやらぬ眼をこすりつつ『何だ』と言ふと妻は「○○が攻めて来たそうです」と震へ乍ら答へる。【A】自分の住んで居る所から五六町も隔つた処に大仏(注・現品川区大井)と云ふお寺がある。野中の一ツ家で東京からの遊楽散歩には丁度宜い箇所になつて居る。それが近頃土地熱、住宅熱にうかされて附近の丘陵や松林を漸次切り開いて埋立地を作つて居る。之に従事して居る土工は全部○○である。彼等は遊楽の婦人にからかう、悪戯をする、折角好ましき此遊楽地も○○の働く様になつてからはすつかり恐怖の土地となつて仕舞つた。(略)果せるかな、妻は自分に彼等の襲撃を告げた。自分の宅は小高い山の上に在る一千坪の一廓が三つにしきられて、私は其一廓の一隅を占めている。此一廓の周囲は凡(およ)そ生垣(いけがき)で更に此の一廓に続ひて五六百坪宛の空き地が二つある。(略)ことある場合の避難地としてはまことに適当な個所である。それを認めてか、自分が妻に揺り起こされてまだ身仕度も整へぬ聞にもう附近の人達が続々と自分の家目指して避難のため押寄せて来た。
二日神戸発の某船の船長の一家族もあれば、其船で官命を帯びて渡航した某省の某高等官の家族もある。小学校の女教員、今年某大学を出て初めて家庭を持つた若夫婦、常には言葉も交わさなかつた妾(めかけ)生活をして居る町の角に住んで居る女すら此中に交つて居た。総勢二十五六名、婦人、子供、お婆さんが多くて男性は僅か四五人である。【B】さうして集まつた人達を最も安全なる避難ケ所として地続きの空き地へと導いた。【C】生茂(おいしげ)る叢(くさむら)や茫(すすき)の中にすつぽりと姿を隠さしめた。其場合、勢ひ自分は指揮官たらざるを得ぬ、自分は『若(も)し○○が掠奪を目的とするならば、全然無抵抗で行きませう。併し多少でも生命に危害を加へる様な形跡があつたならば、私達は婦人子供を先々逃がし乍(なが)ら出来るだけ抵抗を続けて逃げませう』と宣告した。【D】巡査の一人があご紐をかけて、自転車に乗つて駈けて行く。それを把えて『どんな形勢ですか』と-訊ねると彼は「今○○の数三百人程が団体を作つて六郷川で青年団や在郷軍人団と闘つて居る。其中の五六十人が丸子の渡し附近から馬込に入り込んだと云ふ情報がありました、そうして毬子を渡つた処で十五六人女や子供を殺したさうです。皆さん警戒して下さい」と叫び乍らどこかへ飛んで行く。
自分はこれは誠に容易ならざる事と思つた。(略)警鐘の響が四方八方から起る。ワー つと言ふ様な賊声がどこからか聴こえる【E】
          中根栄談『福岡日日新聞』、大正十二年九月二十三日。 
               伏字部分は他の関係資料によれば朝鮮人を指す蔑称が入る
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以上、最後の( )内の説明も含めて、工藤夫妻による引用である。工藤夫妻は明記はしていないが、この記事も『現代史資料6』からの孫引きである。福岡日日新聞に当たってみると、実際には23日朝刊ではなく、22日の夕刊に掲載されたものであることが分かる。

『なかった』本文では、この引用には「大森の高台に広大な敷地を持つある夫婦は、近所の住民多数を自宅の庭に招じ入れ、朝鮮人の襲来からかろうじて逃れた」と説明がつけられている。実はこの中根栄という人は、日本電報通信社の役員で、『戦線の軍犬クラウ』という著書もある愛犬家としても知られる当時は有名な人物だ。

さらに、この記事にも(略)と示さずにこっそりと省略を行なっている箇所がある。その数なんと5箇所。当サイト側で文中に【A】【B】【C】【D】【E】とその場所を示した。このほかに(略)と明示している中略が3箇所ある。合わせて8箇所。ここまで来ると異様である。

工藤夫妻が(略)や、(略)と示さない省略によって隠蔽しているのは、一つには中根栄氏がもともと朝鮮人への偏見と思い込みを強く持った人物であったという事実だ。たとえば三つ目の(略)で略された部分には、読んでいてうんざりするような差別的な視線が見られる。
「体格のいい○○の壮漢が垢と埃(ほこ)りに汚れた労働着を纏(まと)ふて凶器を手に血と性に飢えた叫び声を挙げつつ生垣を破つて自分の団体(女性たち)に襲ひかかる姿がまざまざと現はれる」。

もう一つには、「朝鮮人暴徒が迫ってきている」という中根氏の認識に根拠が薄弱である事をうかがわせる記述をこっそり略している。【B】で略された部分にはこんな一文が含まれている。
「此くする中に○○が来たと云ふわめきが方々から聴こえる。或ものは直ぐ眼の前に来たやうにも伝へるのである」。
震災時の回想にしばしば出てくる、幻覚じみた流言拡散の様子そのものだ。三つ目の(略)で略された文章の中には、「警官が云ふ処であるから嘘ではないと信じた」という一文がある。逆に言えば、警官の呼びかけ以外に根拠がなかったということだ。

三つ目には、これが最も重要なのだが、中根氏と住民たちの恐慌がどのように終わったのかを隠蔽していることだ。【E】で略されているのは以下の一文である。
「こうした恐ろしき時間を二時間余りも叢(くさむら)の中で過ごしたのであった」
これが、原文の最後の一文である。つまり、結局、何も起きずに、彼らはくさむらを出て行ったのである。いかに彼らがあやふやな噂に怯えていたかが伺えるのである。

細かい中略を8箇所も重ねることによって、この記事を読解するうえで重要な要素が切り捨てられてしまっているわけだが、それを再現して通読してみれば、この記事に描かれているのは、「朝鮮人暴徒が襲来する」という流言に怯えて避難した人々の姿であり、それ以上でもそれ以下でもないことが分かる。いかなる意味でも「朝鮮人暴動」の描写ではないし、その実在の証拠にもなりえない。朝鮮人が一人も出てこないのだから、当たり前である。

ところが工藤夫妻は、この記事の引用について、「朝鮮人の襲来からようやく逃れた」「この記録は幸いにも自身が朝鮮人から直接攻撃を受けたわけではない。だが尋常ならざる恐怖を附近住民と共に経験し、警官もそれに加わって異常な状況が生み出されていた」とまとめている。

奇怪なまとめである。「幸いにも自身が朝鮮人から直接攻撃を受けたわけではない」も何も、この記事には、直接だろうが間接だろうが「朝鮮人の攻撃」なるものが実在したことを示す内容は含まれていない。それとも、人々がそう信じていたのだから検証の必要もなく事実なのだ、とでも言うのであろうか。「『証拠』引用その6」(当ブログに後日掲載)と同様、ここにも“Aは事実である、なぜならBさんがそれについて怒っている(あるいは怖がっている)から”という“論理”が見て取れる。

朝鮮人暴徒が今にも押し寄せるという知らせにおののいたが、結局誰も現われなかった―という証言であれば、それこそ無数に残っている。当時の人々は、こうした経験を通じて、一、二週間もすぎる頃には朝鮮人襲来は事実ではないと悟ったのである。にもかかわらず、この手の証言を「幸いにも自身が朝鮮人から直接攻撃を受けなかった」証言だと強弁するのであれば、当時の東京はそうした幸いな日本人であふれかえってしまうことになる。

工藤夫妻がもし、「朝鮮人暴動」の実在を示す証拠を見せたいのであれば、「幸いにも自身が朝鮮人から直接攻撃を受けなかった」証言ではなく、“不幸にも朝鮮人から直接攻撃を受けた”人の証言を示すべきだろう。だが、工藤夫妻は震災直後の流言記事以外にはそんなものを一つも示せていない。

そもそも、こんな読み方をされて驚くのは中根栄氏本人に違いない。というのは、実はこの記事は中根栄氏による「震害の体験」という連載の第6回であり、続く第7回(9月25日付掲載)では草むらを出た中根氏たちがその後どうなったか、どのような認識をもつに至ったかが書かれているからである。これは、『現代史資料6』には収録されていないので、福岡日日新聞に直接当らないと読めないものだ。

工藤夫妻が引用した「震害の体験」連載第6回に続く第7回では、中根氏は草むらを出て、情報収集のために町に向かう。その結果、彼は何を理解したか。
「流言飛語飛ぶが如くに伝はつたがそれらしいものは一向に姿を見せなかつた」「逢ふ人毎に情報は如何デスカと尋ね合ふのであるが凡(すべ)ていい加減な事を伝へるばかりデ一(ひとつ)として真を掴むに足るものはない」「兎に角(とにかく)集め得た情報では大したことではないらしい」。
要するに、朝鮮人暴徒が迫っているなどという事実はないということを、中根氏もようやく悟るのである。中根氏はすぐに帰宅すると、彼の元に避難している近隣住民に「成るべく安心させる様に各種の情報を語り聴かせた後、各自の自宅へ引揚げさせ」たのであった。この連載「震害の体験」は、9回(9月26日夕刊)まで続くが、第6回の後、中根氏は一度も「朝鮮人の襲撃」について言及もせずにこれを終えている。

一体これのどこが、「朝鮮人の襲来からようやく逃れた」(『なかった』p.147)経験なのだろうか。

警視庁『大正大震火災誌』の「流言の発生」中には、2日午後2時5分ごろに確認された流言として、「横浜方面より襲来せる鮮人の数は約二千名にして、銃砲、刀剣等を携帯し、既に六郷の鉄橋をわたれり」「既に多摩川を渉りて洗足村及び中延附近に来襲」といった、工藤夫妻引用の記事とほとんど同じ内容のものが記録されている。

また、9月15日付の読売新聞の記事では、警視庁の木下刑事部長が「流言に驚いて横浜東京間就中(なかんづく)六郷附近などで無暗に警鐘を打つたりしたのが流言を産むの結果となつたものである」とコメントしている。この地域が東京のすべての流言の源流だと言うことはできないだろうが、それほどにこの地域での流言がひどかったことは確かである。「『証拠』引用その3」(後日掲載)で触れるように、流言は横浜から北上したから、東海道沿いのこの地域で流言が盛んだったのは不思議なことではない。