このブログについて

このブログは、工藤美代子/加藤康男による「関東大震災時の朝鮮人虐殺を否定する本を検証するために、

「民族差別への抗議行動・知らせ隊+チーム1923」が作成するものです。

初めてご覧になる方は、入門編「はじめに」からお読みください。

2015年2月3日火曜日

トリックその2

                                                    

“うちのお父さんの一言”だけを根拠に
「当時の政府が真実を隠蔽した」と言い張る


工藤夫妻(工藤美代子/加藤康男)は、『関東大震災「朝鮮人虐殺」はなかった!』(旧名『関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実』)のなかで、関東大震災直後の朝鮮人暴動の実在を政府が隠蔽したと主張している。それによって後世、「暴動は流言だった」という誤った認識が定着してしまったのだという。

つまり、震災直後の新聞は朝鮮人暴動の事実を正しく伝えていた、ところがこれに対して政府が朝鮮人暴動の事実を隠蔽し、報道を止めさせ、「あれは流言だった」と嘘を書かせるようになったのだ―というわけだ。なるほど、それなら(世の中が落ち着いて以降の)多くの行政機関の報告が朝鮮人暴動の実在を否定していようと、朝鮮人暴動こそが事実だと主張することができるかもしれない。

逆に言えば、この「隠蔽」説すら成り立たないのであれば、多くの行政機関とメディア、政府要人や知識人、一般人の回想がこぞって否定している朝鮮人暴動の実在を証明することは絶望的だろう。つまり、政府の隠蔽説は、工藤夫妻の主張する「朝鮮人暴動実在論=朝鮮人虐殺なかった論」が成立するために不可欠ということだ。工藤夫妻はこの説の正しさをどのように証明してみせているのだろうか。

工藤夫妻は、この隠蔽を主導したのは震災直後の1923年9月2日に就任した内務大臣・後藤新平であると断じている(『なかった』第4章「『襲来報道』を抑えた後藤新平の腹」)。後藤が、朝鮮人暴徒と戦う自警団を抑え込み、さらにメディアの統制や操作を通じて、暴動の実在そのものを隠蔽していったというのだ。

そして、後藤がどのように隠蔽を指示していったかを、当時、警視庁幹部として後藤の下で働いていた正力松太郎(後の読売新聞社主)と後藤のやりとりを生き生きと描き出すことで示していく。「後藤が打ち出した内務省の方針が、朝鮮人を救うこと、自警団の武装解除だったから正力は当初我が目を疑った。これでは市民の生命の安全は保障できないと、本気で後藤に噛み付いたことも一再ならずあった」(『なかった』p.212)といった具合だ。

ところが、である。工藤夫妻は二人のこうしたやり取りをまるで小説のように描く一方で、そうした描写がいかなる史料に基づいているのか、本文中では全く示していない。なぜか。実は、それらの描写には史料的根拠が全くないからである。

近代日本の大政治家である後藤新平にしても、戦前戦後を通じてさまざまな分野で活躍した正力松太郎にしても、その生涯については多くの記録が残されている。正力の『悪戦苦闘』のように、彼ら自身が書き残した回想もあるし、鶴見祐輔の『後藤新平伝』のように、彼らの身近にいた人々の手による評伝類もある。工藤夫妻自身も、『なかった』の巻末で彼らについての関連史料の書名を並べている。だがその中に、後藤や正力の「隠ぺい工作」をうかがわせる記述を見つけることはできない。

そもそも、工藤説に従えば隠蔽を指示したことになるはずの内務省警保局、つまり特高警察の内部文書にも「朝鮮人暴動」は出てこない。内務省警保局が震災の2年後、1925年1月にまとめた内部文書『最近ニ於ケル在留朝鮮人ノ情況』(萩野富士夫編『特高警察関係資料集成』12巻収録)には、関東大震災の際に「朝鮮人に対する不祥事件」があったことは書いてあるが、朝鮮人「による」暴動があったなどとは一言も書いていない。隠蔽を図る主体であるべき特高警察の内部文書ですら「真実」が隠蔽されているとでもいうのだろうか。

工藤夫妻が小説のように描いている「朝鮮人暴動の隠蔽」に対応する記述は、残された史料の中には存在しないのである。後藤が暴動の隠蔽を図ったという記述はおろか、正力が「我が目を疑った」り、「本気で後藤に噛み付いた」りしたという記録すらない。それどころか、工藤夫妻の書いている内容は、関東大震災期の政府の動向として現在分かっている多くの事実とさえ矛盾している。

史料的裏付けがないままで、あるいは事実として分かっていることに反して歴史上の人物を好き勝手に活躍させるのであれば、それはノンフィクションではなくて時代小説である。

いや、一つだけ証拠らしきものを示している箇所がある。後藤新平の発言と称する次の台詞である。
「正力君、朝鮮人の暴動があったことは事実だし、自分は知らないわけではない。だがな、このまま自警団に任せて力で押し潰せば、彼らとてそのままは引き下がらないだろう。必ずその報復がくる。報復の矢先が万が一にも御上に向けられるようなことがあったら、腹を切ったくらいでは済まされない。だからここは、自警団には気の毒だが、引いてもらう。ねぎらいはするつもりだがね」
(『なかった』p.214)

この台詞は、ベースボール・マガジン社の創業者である池田恒雄氏が戦後、正力松太郎から聞いた後藤新平の言葉だそうだ。工藤夫妻が池田恒雄氏から直接、聞いたと主張している。後藤自身が隠蔽を認めているというわけだ。

ところで、どうして唐突にベースボール・マガジン社の創業者なる人物が出現するのか疑問に思わないだろうか。いったい、池田恒雄氏とは誰なのか。

実は、池田恒雄氏は工藤美代子氏の実父、つまり、加藤康男氏の義父である。まさか、と疑う人は、「池田恒雄 工藤美代子」でネット検索してみてほしい。

つまり、「隠蔽説」を証明するに当たって示されているたった一つの証拠が「お父さんから聞いた(と称する)話」なのだ。しかも、そのお父さんは震災当時の要人でもないし、目撃者ですらない。後藤の話はいわゆる「また聞き」だ。そして、それをお父さんから聞いた(と主張している)のは娘と義理の息子だけ。お父さん本人は本が出る何年も前に亡くなっている。そのうえ工藤夫妻は、池田氏が自分たちの父であるという事実さえ、『なかった』の中では伏せているのだ(つまり「隠蔽」している!)。ものすごく、ものすごく控え目に言って、こんな話を「証拠」として真に受けるのは、よほどのお人好しだけじゃないだろうか。

まとめよう。工藤夫妻がやっているのはこういうことである。

虐殺研究の資料集を覗いたら朝鮮人暴動を伝える震災直後の新聞記事が載っていた。すごい迫力だ。そこで、その記事を書き写して、ほら見ろ、朝鮮人暴動は事実だ、ここに書いてあるぞと主張することにした。じゃあなんでその記事の内容が今まで虚報とされてきたんだ? という疑問に対しては、それは政府が隠蔽してきたからだと反論する。その根拠はどこにあるんだという質問には、ぼくが(私が)お父さんからそう聞いた、と胸を張る。もちろん、「お父さんの話」以外には「隠蔽」の史料的根拠は一つも示せない―。

ちなみに「その1」で「暴動の証拠」史料16本のうち12本が震災直後の記事だと書いたが、残りの4本についても触れておく。これらは4本とも、震災直後のものではなく、もう少し後で書かれた手記であり、内容の信用度については問題がないはずだ。その代わり、今度は工藤夫妻の読み方がおかしくなる。10分以内に朝鮮人が襲ってくると告げられたが来なかったとか、朝鮮人が襲ってくると言われて藪の中に逃げたりしたけど、結局、誰も来なかった―といった類の経験を、「幸いにも朝鮮人に直接の攻撃を受けずにすんだ」経験と強弁して、朝鮮人暴動の目撃証言にカウントしてしまうのである。朝鮮人襲来の流言に慌てふためいたが何も起こらずに終わったという体験であれば、無数に残されている。だがそれは流言の体験ではあっても、朝鮮人暴徒の目撃証言とは言えないはずだ。

『関東大震災「朝鮮人虐殺」はなかった』は、そういう本である。思わせぶりな話法や演出をはぎとってしまえば、残るのは稚拙なトリックだけなのだ。

当ブログは、サイト「『朝鮮人虐殺はなかった』はなぜデタラメか」の一部です。朝鮮人虐殺、あるいは虐殺否定論批判をもっとくわしく知りたい方は、そちらもご覧ください


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