このブログについて

このブログは、工藤美代子/加藤康男による「関東大震災時の朝鮮人虐殺を否定する本」を検証するために、

「民族差別への抗議行動・知らせ隊+チーム1923」が作成するものです。

初めてご覧になる方は、入門編「はじめに」からお読みください。

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2015年2月5日木曜日

はじめに

                                                    

工藤美代子/加藤康男
『関東大震災「朝鮮人虐殺」はなかった』
はどんなトリックの上に成り立つ本か


1923年9月1日に発生した関東大震災は、10万人を超える死者を出す大惨事だった。その上、この悲惨な天災に人災を加えたのが、朝鮮人虐殺事件だ。震災後の混乱の中で、「朝鮮人が井戸に毒を入れた」「朝鮮人が放火している」といった流言がひろがり、それを真に受けた人々、あるいは軍などによって、多くの朝鮮人が虐殺された。正確な数は不明だが、歴史学の世界では、数千人規模と見るのが一般的だ。フジサンケイ系の育鵬社も含め、たいていの中学の歴史教科書にも記述がある(くわしくはこちらを参照→20分でわかる「虐殺否定論」のウソ ◉「保守派の歴史学者も虐殺について記述」)。

ところが、この史実を真っ向から否定する人たちがいる。ノンフィクション作家の工藤美代子氏と、その夫の加藤康男氏である。2009年に工藤名義で『関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実』(産経新聞出版)が刊行され、2014年にはそれに加筆した『関東大震災「朝鮮人虐殺」はなかった』(WAC)が、今度は加藤康男名義で刊行された。後者は前者の「新版」と銘打っている。実際、内容も若干の加筆を除けばほぼ同一だ。

関東大震災「朝鮮人虐殺」はなかった!(2014) 

関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実(2009)


二人は「取材・執筆を共同で行ってきた」(加藤康男版あとがき)そうだから、『真実』も『なかった』も、実際には工藤美代子氏と加藤康男氏の共著ということなのだろう。ややこしいので、当サイトでは彼らの本のタイトルを『なかった』と表記し、著者をまとめて「工藤夫妻」と呼ぶことにする。

さて、『なかった』の主張を一言でまとめると

「朝鮮人虐殺なんてなかった。なぜなら、それは地震に乗じて暴動を起こした朝鮮人に対する日本人の反撃であって一方的な虐殺ではなかったから」

となる。

なるほど。確かに当時の自警団は、「朝鮮人が暴動を起こした。井戸に毒を入れた」という噂を信じて朝鮮人を殺害した。だが、彼らが信じた「朝鮮人暴動」は結局、事実ではなくて単なる流言だったのではなかったか。

ところが工藤夫妻は、これを真っ向から否定する。あれは流言ではなかった、朝鮮人暴動は本当にあったのだ、と言うのだ。では『なかった』で、工藤夫妻はこれまでの常識を覆して、暴動の実在を論証できているのだろうか。結論を言ってしまえば、全くできていない。その代わりに夫妻は、手品のような論法で読者を丸め込んでいる。そう、『なかった』は、右手に注目を集めておいて左手の袖から隠していたコインを取り出すといった初歩的な手品を思わせる本なのである。

ではこの本は、どんな手品によって成立しているのか。少し長くなるが、そのトリックの「タネ明かし」をお見せしよう。

当ブログは、サイト「『朝鮮人虐殺はなかった』はなぜデタラメか」の一部です。朝鮮人虐殺、あるいは虐殺否定論批判をもっとくわしく知りたい方は、そちらもご覧ください


誤報・虚報が横行した震災直後の新聞記事を「証拠」に仕立てる 


2015年2月4日水曜日

トリックその1

                                                    

誤報・虚報が横行した
震災直後の新聞記事を
「証拠」に仕立てる


工藤夫妻は、何を根拠に“朝鮮人暴動は実在した”というのであろうか。震災当時の新聞記事である。新聞を見れば、朝鮮人暴動を伝える記事が無数にあるではないか、これが証拠だ―というのだ。工藤夫妻は『なかった』の中で、そうした記事を次から次へと引用する。
「不逞の鮮人約二千は腕を組んで(横浜)市中を横行」

「鮮人が暴動を起し市内各所に出没して強盗、強姦、殺人等をやつて居る」

「品川には三日に横浜方面から三百人位の朝鮮人が押寄せ掠奪したり爆弾を投じたりするので近所の住民は獲物を以て戦ひました」…。
その生々しい迫力に圧倒される読者も多いに違いない。こんなにはっきりと朝鮮人の暴動を伝える記事が、これほど多く残されているのか。これまで教えられてきた歴史とは正反対じゃないか…というわけだ。実際、工藤夫妻は、これらの記事の存在こそが暴動の証拠であるとして論を展開していく。

だが、工藤夫妻が紹介する新聞記事の日付をよく見ていくと、そのほとんどが震災直後(1923年9月1日から10日程度)のものであることに気づく。朝鮮人暴動の「証拠」として挙げてられている16本中、12本が9月8日までのものなのである(残りの4本については後述)。

実は震災直後の新聞紙面に「朝鮮人暴動」記事が無数に存在するのは事実である。それは工藤夫妻が初めて発見したことでもなんでもない。研究者はもちろん、ちょっとでも当時のことに興味をもって調べたことがある人であれば誰でも知っていることだ。そしてまた、震災直後の混乱期を過ぎると「朝鮮人暴動」記事がぱったりと消えてしまうのも事実なのである。翌10月下旬以降は、朝鮮人暴動ではなく、一転して自警団の朝鮮人虐殺の記事が紙面を賑わすようになる。なぜだろうか。

震災直後の新聞紙面はいずれも大混乱であった。東京市内の新聞社のほとんどが壊滅する中で、通信や交通の崩壊に地方紙の「競争的流入」(警視庁『大正大震火災誌』)も加わって、とんでもない虚報・誤報が横行したのである。「山本首相暗殺」「伊豆大島沈没」、さらには「摂政宮(後の昭和天皇)が行方不明」といった号外までが飛び交った。

 虚報・誤報画像はこちら→◉記憶に刻む「デマ記事」

だが時間が経ち混乱が収まってくると、何が事実で何がそうでないか、おのずと明らかになってくる。暗殺されたはずの山本首相は国会に登壇し、沈んだはずの伊豆大島は海上に姿をしっかり見せているのだから当然だ。

朝鮮人暴動も同じだ。先に紹介したような「三百人位の朝鮮人が押寄せ掠奪」だの「不逞の鮮人約二千が横行」だのといった光景を、「この目で確かに見た」という人はついに一人も現れなかったのである。震災直後の新聞は、避難民が口々に叫んでいた流言を疑うこともなく、そのまま事実として報道していたのだ。新聞の鬼と呼ばれた山根真治郎は、当時の「朝鮮人暴動」記事の氾濫について「常軌を逸した誤報を重ねて悔を千歳に遺した」と1941年に回想している→◉山根真治郎「誤報とその責任」。

新聞の流言報道による治安のさらなる悪化を危惧した政府は9月7日、「朝鮮人」報道を禁止する。そしてこれが10月20日に解除されたとき、もはやどの新聞も「朝鮮人暴動」を伝えることはなかった。新聞各紙がいっせいに書きたてたのは、「流言蜚語に狂つて逆上していた」(→◉五十八名の労働者を数珠ぎにして虐殺)自警団による朝鮮人虐殺の残酷な様相であり、彼らに対する検挙の報であり、加えて当初は虐殺をあおっていた行政の責任問題であった(→◉鮮人襲来を巡査が触れ回る)。

作家の田中貢太郎は、震災から4ヵ月後の1924年1月に刊行された『日本大震災史』で、朝鮮人虐殺について「鮮人暴動の流言に血迷つた自警団の鮮人及び鮮人と誤つた内地人に対する虐殺事件」(→◉自警団の暴行、朝鮮人虐殺その他)とまとめている。
また、保守派知識人の徳富蘇峰は、9月末には早くも「かかる流言飛語―すなわち朝鮮人大陰謀の社会の人心をかく乱したる結果の激甚なる」ことを嘆じている(→◉流言飛語)。これが当時の一般的な事実認識なのである。

行政機関の認識も同様だ。
たとえば工藤夫妻が証拠と主張する「不逞の鮮人約二千は腕を組んで(横浜)市中を横行」という記事について言えば、神奈川県知事は「(朝鮮人が)隊伍を組みて来襲せしなどのこと皆無」(→◉神奈川県罹災状況)と報告し、神奈川警備隊司令官は「之(朝鮮人暴動)を徹底的に調査せしに悉く事実無根に帰着せり」(→◉神奈川警備隊司令官の回想)と書いている(ブログ『記憶を刻む』「公式記録と要人の証言」参照)。

メディアや行政機関だけではない。関東大震災は関東地方の数百万人が経験した大事件であるから、無数の人々が自らの経験や見聞を書き残している。作家や文化人に加えて庶民の証言も多い。手記や日記のほか、自治体や学者による聞き取り、老人ホームの思い出集まで、数え切れないほどだ。だがどこにも、腕を組んで横行する数千の朝鮮人をこの目で見た―という記録は残っていないのだ。残っているのは、流言に怯えた記録であり、朝鮮人が迫害され、殺されるのを見たという記録ばかりなのである。

「朝鮮人暴動」を伝える記事など、極端な混乱状況であった震災直後の新聞にしか登場しない。そんなものは流言に過ぎなかったというのが、震災からしばらく経った頃の一般的な認識だったのだ。それは10月以降の新聞や行政記録、知識人の文章などを見れば一目瞭然なのである。それは決して戦後になってGHQやら日教組やらが「捏造」した認識ではない。

ところが工藤夫妻は、混乱が続く震災直後に書かれた「朝鮮人暴動」記事だけを事実と称して抜き出しつつ、その後にそれが誤報、虚報だったと当時の人々が理解していく経緯や、その後の報道や記録についてはろくに検証しようともしない。むしろ読者の目からひた隠しにしている。あとはデマ記事に都合のいい解釈をまぶしていけば、「朝鮮人暴動」説の完成だ。これが、震災直後の流言記事を証拠に仕立てるというトリックの仕組みなのである。

しかも呆れたことに、工藤夫妻が持ち出す新聞記事を中心にした16本の「暴動の証拠」史料のうち、11本までが、『現代史資料6 関東大震災と朝鮮人』(姜徳相/琴秉洞編、みすず書房、1963年)に収録されているものだ。この本は、虐殺研究の基本的な史料集成として有名なもので、たいていの大学図書館や地域の大型図書館には所蔵されているものだ。つまり、これらの記事は、工藤夫妻が苦労して発掘したものでも何でもない。簡単に入手できる有名な本から、まとめて書き写したものなのである。工藤夫妻は後書きで『現代史資料6』編者に謝辞まで書いている。

当然の話だが、震災研究者たちは、『現代史資料6』に収録されている記事中の「朝鮮人暴動」の記述を、事実ではなく流言を伝えるものとして読んでいる。実際、震災直後の流言記事を研究する論文も存在する(たとえば産経新聞の論説委員も務めた東海大学の山本文雄教授による「流言の二つの形態―関東大震災と二・二六事件」関西大学新文学研究、1967年など)。

本来なら工藤夫妻は、「これまで全ての研究者が流言を伝えているものと理解してきた記事を、なぜ、あなたたちだけは事実だと考えるのか」「行政機関も新聞報道も、震災からしばらく経つ頃には朝鮮人暴動の実在を否定している。そのことをどう説明するのか」という問いに答えなくてはならないはずである。最低限、それに答えなければ、「朝鮮人暴動の実在」が証明されたことにはならない。

だが工藤夫妻は、「朝鮮人暴動はホントにあった。その証拠に見ろ、震災直後の新聞にそう書いてあるじゃないか」と繰り返すだけだ。論理的に言って、「暴動は事実ではなかった。震災直後の新聞は流言を書き散らした」というこれまでの認識に対して、これは何の「反証」にもなっていない。

ただし、工藤夫妻は反証めいたものを一つだけ提示している。当時の政府が真実を隠蔽したのだ、メディアに対しても真実を書かせないようにしたのだ――というものである。次の文章では、これについて検証する。

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NEXT→【トリックその2】 
“うちのお父さんの一言”だけを根拠に「当時の政府が真実を隠蔽した」と言い張る

2015年2月3日火曜日

トリックその2

                                                    

“うちのお父さんの一言”だけを根拠に
「当時の政府が真実を隠蔽した」と言い張る


工藤夫妻(工藤美代子/加藤康男)は、『関東大震災「朝鮮人虐殺」はなかった!』(旧名『関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実』)のなかで、関東大震災直後の朝鮮人暴動の実在を政府が隠蔽したと主張している。それによって後世、「暴動は流言だった」という誤った認識が定着してしまったのだという。

つまり、震災直後の新聞は朝鮮人暴動の事実を正しく伝えていた、ところがこれに対して政府が朝鮮人暴動の事実を隠蔽し、報道を止めさせ、「あれは流言だった」と嘘を書かせるようになったのだ―というわけだ。なるほど、それなら(世の中が落ち着いて以降の)多くの行政機関の報告が朝鮮人暴動の実在を否定していようと、朝鮮人暴動こそが事実だと主張することができるかもしれない。

逆に言えば、この「隠蔽」説すら成り立たないのであれば、多くの行政機関とメディア、政府要人や知識人、一般人の回想がこぞって否定している朝鮮人暴動の実在を証明することは絶望的だろう。つまり、政府の隠蔽説は、工藤夫妻の主張する「朝鮮人暴動実在論=朝鮮人虐殺なかった論」が成立するために不可欠ということだ。工藤夫妻はこの説の正しさをどのように証明してみせているのだろうか。

工藤夫妻は、この隠蔽を主導したのは震災直後の1923年9月2日に就任した内務大臣・後藤新平であると断じている(『なかった』第4章「『襲来報道』を抑えた後藤新平の腹」)。後藤が、朝鮮人暴徒と戦う自警団を抑え込み、さらにメディアの統制や操作を通じて、暴動の実在そのものを隠蔽していったというのだ。

そして、後藤がどのように隠蔽を指示していったかを、当時、警視庁幹部として後藤の下で働いていた正力松太郎(後の読売新聞社主)と後藤のやりとりを生き生きと描き出すことで示していく。「後藤が打ち出した内務省の方針が、朝鮮人を救うこと、自警団の武装解除だったから正力は当初我が目を疑った。これでは市民の生命の安全は保障できないと、本気で後藤に噛み付いたことも一再ならずあった」(『なかった』p.212)といった具合だ。

ところが、である。工藤夫妻は二人のこうしたやり取りをまるで小説のように描く一方で、そうした描写がいかなる史料に基づいているのか、本文中では全く示していない。なぜか。実は、それらの描写には史料的根拠が全くないからである。

近代日本の大政治家である後藤新平にしても、戦前戦後を通じてさまざまな分野で活躍した正力松太郎にしても、その生涯については多くの記録が残されている。正力の『悪戦苦闘』のように、彼ら自身が書き残した回想もあるし、鶴見祐輔の『後藤新平伝』のように、彼らの身近にいた人々の手による評伝類もある。工藤夫妻自身も、『なかった』の巻末で彼らについての関連史料の書名を並べている。だがその中に、後藤や正力の「隠ぺい工作」をうかがわせる記述を見つけることはできない。

そもそも、工藤説に従えば隠蔽を指示したことになるはずの内務省警保局、つまり特高警察の内部文書にも「朝鮮人暴動」は出てこない。内務省警保局が震災の2年後、1925年1月にまとめた内部文書『最近ニ於ケル在留朝鮮人ノ情況』(萩野富士夫編『特高警察関係資料集成』12巻収録)には、関東大震災の際に「朝鮮人に対する不祥事件」があったことは書いてあるが、朝鮮人「による」暴動があったなどとは一言も書いていない。隠蔽を図る主体であるべき特高警察の内部文書ですら「真実」が隠蔽されているとでもいうのだろうか。

工藤夫妻が小説のように描いている「朝鮮人暴動の隠蔽」に対応する記述は、残された史料の中には存在しないのである。後藤が暴動の隠蔽を図ったという記述はおろか、正力が「我が目を疑った」り、「本気で後藤に噛み付いた」りしたという記録すらない。それどころか、工藤夫妻の書いている内容は、関東大震災期の政府の動向として現在分かっている多くの事実とさえ矛盾している。

史料的裏付けがないままで、あるいは事実として分かっていることに反して歴史上の人物を好き勝手に活躍させるのであれば、それはノンフィクションではなくて時代小説である。

いや、一つだけ証拠らしきものを示している箇所がある。後藤新平の発言と称する次の台詞である。
「正力君、朝鮮人の暴動があったことは事実だし、自分は知らないわけではない。だがな、このまま自警団に任せて力で押し潰せば、彼らとてそのままは引き下がらないだろう。必ずその報復がくる。報復の矢先が万が一にも御上に向けられるようなことがあったら、腹を切ったくらいでは済まされない。だからここは、自警団には気の毒だが、引いてもらう。ねぎらいはするつもりだがね」
(『なかった』p.214)

この台詞は、ベースボール・マガジン社の創業者である池田恒雄氏が戦後、正力松太郎から聞いた後藤新平の言葉だそうだ。工藤夫妻が池田恒雄氏から直接、聞いたと主張している。後藤自身が隠蔽を認めているというわけだ。

ところで、どうして唐突にベースボール・マガジン社の創業者なる人物が出現するのか疑問に思わないだろうか。いったい、池田恒雄氏とは誰なのか。

実は、池田恒雄氏は工藤美代子氏の実父、つまり、加藤康男氏の義父である。まさか、と疑う人は、「池田恒雄 工藤美代子」でネット検索してみてほしい。

つまり、「隠蔽説」を証明するに当たって示されているたった一つの証拠が「お父さんから聞いた(と称する)話」なのだ。しかも、そのお父さんは震災当時の要人でもないし、目撃者ですらない。後藤の話はいわゆる「また聞き」だ。そして、それをお父さんから聞いた(と主張している)のは娘と義理の息子だけ。お父さん本人は本が出る何年も前に亡くなっている。そのうえ工藤夫妻は、池田氏が自分たちの父であるという事実さえ、『なかった』の中では伏せているのだ(つまり「隠蔽」している!)。ものすごく、ものすごく控え目に言って、こんな話を「証拠」として真に受けるのは、よほどのお人好しだけじゃないだろうか。

まとめよう。工藤夫妻がやっているのはこういうことである。

虐殺研究の資料集を覗いたら朝鮮人暴動を伝える震災直後の新聞記事が載っていた。すごい迫力だ。そこで、その記事を書き写して、ほら見ろ、朝鮮人暴動は事実だ、ここに書いてあるぞと主張することにした。じゃあなんでその記事の内容が今まで虚報とされてきたんだ? という疑問に対しては、それは政府が隠蔽してきたからだと反論する。その根拠はどこにあるんだという質問には、ぼくが(私が)お父さんからそう聞いた、と胸を張る。もちろん、「お父さんの話」以外には「隠蔽」の史料的根拠は一つも示せない―。

ちなみに「その1」で「暴動の証拠」史料16本のうち12本が震災直後の記事だと書いたが、残りの4本についても触れておく。これらは4本とも、震災直後のものではなく、もう少し後で書かれた手記であり、内容の信用度については問題がないはずだ。その代わり、今度は工藤夫妻の読み方がおかしくなる。10分以内に朝鮮人が襲ってくると告げられたが来なかったとか、朝鮮人が襲ってくると言われて藪の中に逃げたりしたけど、結局、誰も来なかった―といった類の経験を、「幸いにも朝鮮人に直接の攻撃を受けずにすんだ」経験と強弁して、朝鮮人暴動の目撃証言にカウントしてしまうのである。朝鮮人襲来の流言に慌てふためいたが何も起こらずに終わったという体験であれば、無数に残されている。だがそれは流言の体験ではあっても、朝鮮人暴徒の目撃証言とは言えないはずだ。

『関東大震災「朝鮮人虐殺」はなかった』は、そういう本である。思わせぶりな話法や演出をはぎとってしまえば、残るのは稚拙なトリックだけなのだ。

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NEXT→【トリックその3】 
統計数字の初歩的なトリックで虐殺犠牲者数を極小化

トリックその3

                                                    

統計数字の初歩的なトリックで
虐殺犠牲者数を極小化


工藤夫妻(工藤美代子/加藤康男)が書いた『関東大震災「朝鮮人虐殺」はなかった!』(旧名『関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実』)の基本的な主張への批判は、【トリックその1】、【トリックその2】で済んでしまった。
「朝鮮人暴動は実在した。したがって朝鮮人虐殺はなかった」という主張が「手品」にすぎないことはご理解いただけたと思う。

ところが、工藤夫妻は『なかった』の中でもうひとつ、おかしな主張を行っている。「統計的に考えると、朝鮮人虐殺の犠牲者はこれまで言われてきたほど多くないはずだ」というものだ(同書第6章「トリック数字がまかり通る謀略」)。『なかった』のアマゾンレビューを見ると、「朝鮮人虐殺はなかった」という主張にはさすがについていけない読者であっても、虐殺犠牲者数をディスカウントするこの説はもっともらしく見えるようだ。

工藤夫妻の主張は、簡単に言うと以下のようになる。

関東大震災では10万人以上が地震やそれに伴う火災によって死亡した。朝鮮人にも地震で死んだ者がいたはずである。だとすると、東京近県(東京府と神奈川、埼玉、千葉の各県)の朝鮮人人口から、「保護検束」「収容」された数と、地震で死んだと推測される数を引いた残りの人数が、殺された朝鮮人の数になる。その数はこれまで言われてきたほど多くはないはずだ―

なるほど、一理ある。工藤夫妻はこの見立てに従って細かい計算を重ね、ついに「殺された“朝鮮人テロリスト”の数は810人」という結論を導き出すのである。

だがこの説も初歩的な手品の上に成り立っている。朝鮮人人口の推測などの細かい数字についてもおかしなことをしているのだが、それはここではいちいち検証しない。後日に当サイトで公開する工藤夫妻批判の「統計」編で詳細に明らかにしよう。ここではこの主張のキモとなる最大のトリックについてだけ指摘しておく。地震で死んだ朝鮮人の人数の割り出し方である。

先の計算に従えば、地震による死者数が多くなるほど、虐殺による死者数は少なくなるので、これは重要だ。さて、工藤夫妻は、地震で死んだ朝鮮人の数を「1960人」と推測する。工藤夫妻は東京近県の朝鮮人人口を9800人としているから、ばかにならない規模の数字である。
一体、どのような計算に基づくものか。

工藤夫妻は、地震による死者の多くが下町界隈、とくに本所区、深川区で亡くなったことを指摘する。そしてこの地域は朝鮮人が多く住む場所であったとも言う。そして、両区の日本人の死亡率が15%だから、粗末な住居に住んでいた朝鮮人の死亡率はもっと高いはずだとする。

「そこで、15パーセントより多目の20パーセントを対人口死亡率とし、被災基礎人口9800人に乗ずれば1960人という数字が死者、行方不明者として算出される」
(『なかった』p.287)。

これが工藤夫妻の算出方法である。そして、関東地方の朝鮮人人口から、収容された(つまり震災直後を生き延びた)朝鮮人の数を引き、さらに刑事事件で明確に被害者とされている233人を引き、さらにこの地震による死者1960人を引くと、「殺された朝鮮人“テロリスト”は810人」という結論になるわけだ。

虐殺の犠牲者であることが明らかな233人を差し引くのは、彼らは刑事裁判で被害者と認定されているのでテロリストではない、という工藤夫妻の主張による。だが工藤夫妻が自分で最初に設定した問いは「殺された朝鮮人の数」であり、「殺されたテロリストの数」ではなかったはずだ。さりげなくこうしたおかしな操作を行うのは、殺された朝鮮人の数を千人台に上らせたくない意図があるためだと思われる。そもそも、すでに見てきたように、殺された朝鮮人がテロリストであるという主張は破綻している。こちらとしては、工藤夫妻は殺された朝鮮人の数を、確定した233人+推定810人=1043人だと主張していると受け取るほかない。

工藤夫妻の計算に戻ろう。「被災基礎人口」とは、東京近県(東京府、神奈川、埼玉、千葉の各県)の朝鮮人人口(推定)を指している。さて、この説明の何がおかしいか、分かるだろうか。

関東大震災による死者数は10万5000人である。これを東京近県の当時の日本人の人口約800万人に当てはめれば、一般の死亡率はせいぜい1%超ということになる。なぜ朝鮮人だけは同じ地域で死亡率が20%にも上るのか。なんらかのトリックが介在していることはすぐに分かる。

カギは、本所区と深川区という地名にある。実はこの両区は、関東大震災時の死亡率の高さで第1位と第3位を占めている(第2位は横浜市)。とくに第1位の本所区の死亡率は22%。2位の横浜の6.6%、3位の深川区の2.4%と比べても突出している(数字は「関東地震(1923 年 9 月 1 日)による被害要因別死者数の推定」による)。なぜか。本所区には、3万8000人が火災旋風によって命を落としたことで有名な陸軍被服廠跡があったからである。関東大震災全体の死者・行方不明者10万5000人のうち、36%が本所区で亡くなっているのだ。

つまり工藤夫妻は、この両区の突出した死亡率を関東全域に拡大して当てはめ、関東全域での地震による朝鮮人死者数を「推測」するという「計算」を行っているのだ。メチャクチャな話である。

実際には「関東大震災」といっても、地震・火災による死者を多く出したのは東京の中心部と横浜市だけである。関東全域で15%とか20%の死者が出ていたら、日本人の死者数だって10万5000人ではすまない。たとえて言えば工藤夫妻の計算は、東日本大震災時に津波によって大きな被害を出した陸前高田の数字を東日本全域の人口に当てはめて、東日本大震災全体の死者数を「推測」するようなものなのである。

工藤夫妻は、地震による死者を多く出したのが下町界隈だったことや、下町には他の地域に比べて相対的に朝鮮人が多かったという、それ自体は疑いようのない事実に読者の注意を向けさせて、計算のおかしさに気づかないようにすることで、このトンデモな数字を読者に信じさせることに成功している。右手に視線を集めておいて左手の袖から隠していたコインを取り出すといった手品の典型だ。

工藤夫妻はほかにも、死者数をディスカウントするために、細部にわたってチョコマカとおかしな設定や条件を計算に紛れ込ませている。我々がまともに計算してみたところ、朝鮮人の地震による死者数は100人から、どんなに多く見積もっても500人以下ということになった。そうなると、工藤夫妻の主張に反して、「朝鮮人虐殺の犠牲者は数千人」というこれまでの通説は十分に成り立ちうることになる。長くなるのでこれ以上は後日に公開する詳細な検証の「統計編」で説明しようと思う。

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NEXT→【トリックその4】 
出版物として許されないルール違反を乱発

2015年1月29日木曜日

トリックその4

                                                    

出版物として許されないルール違反を乱発


工藤夫妻(工藤美代子/加藤康男)が書いた『関東大震災「朝鮮人虐殺」はなかった!』(旧名『関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実』)という本のトリックはすでに見てきたとおりだが、それ以外にも、この本の至るところに細かいトリックが仕掛けられている。そしてその中には、本来、出版物として許されないルール違反を行っているものもある。

最も問題なのは、史料の引用に際して、(略)とも示さずに内容の一部をこっそり省略してしまうということを公然と行っていることだ。朝鮮人暴動実在の証拠という文脈で引用されている史料16本の引用に限っても、そのうち7本で「こっそり省略」を行っている。(略)と示されていないので、どこが省略されているのかは原文と突き合せないと分からなくなってしまっている。

しかもそのことを、なんと凡例で、「(略)と記した箇所以外にも読みやすさや紙幅の関係から省略した部分がある」とあらかじめ居直っている。こんな凡例は見たことがない。「紙幅の関係」であれば(略)と明記すればよいだけではないか。

「なかった」加藤康男版の凡例(クリックで拡大)


実際には、省略は「紙幅の関係」のみで行われているわけではない。中には、原文では噂として紹介されている話を省略によって事実と誤読させたり、朝鮮人への迫害の場面を省いたり、ひどいものになると原文の論旨を完全にねじまげてしまっているものもある。決して長くない引用なのに、(略)と「こっそり省略」を合計8箇所も行ってブツ切りにしているものもある(同p.147。孫引き元とおぼしき『現代史資料6』p.177の原文とつきあわせて見よ)。
もはや「改変」と呼んでもいい事態である(どこでどのように省略を「行使」しているかについては、後日、追って掲載する詳細な検証を見ていただきたいが、とりあえずは、こちらに1点だけ示しておく。→『記憶に刻む』「後藤新平 闕下(けっか)に奉呈せし【せんとし】待罪書」

これが『徳川家康の人生訓』といった類のお手軽教養本であれば、歴史文書が不正確に引用されていることがあってもさしたる害はないだろう。しかし、論争的な歴史ノンフィクションで引用の原文を(略)と明示せずに省略するなど、ありえないことだ。

さらには、権威のある資料を「出典」として文末で示しつつ、しかしその実、原典に全く書いていないことを書き連ねるということまで行っている。『なかった』p.336で、工藤夫妻は以下のように書いている。

「ところで、こうした上海仮政府と地下水脈で通じていたテロ集団にも、路線をめぐる党派争いがあった。/その結果、集団はいくつかの分派に分裂しながら、個々にテロ計画を練って日本内地襲撃を狙っていたものと考えられる。だが、いずれの分派も目標日の第一は摂政宮の御成婚当日、それも摂政宮そのものを目標としていた。ところが分派それぞれの事情から、資金や実行部隊の確保、逃走ルートの確認等の準備がばらばらで統一を欠いていた(『朝鮮民族独立運動秘史』)」

上海仮政府とは、上海に拠点を置いた朝鮮独立派の臨時政府のこと。摂政宮とは、当時の皇太子、後の昭和天皇のことである。中国に拠点を置く朝鮮人抗日組織各派が、それぞれに摂政宮襲撃の準備を進めていたというのである。『朝鮮民族独立運動秘史』(以下、『秘史』)という本にそう書いてあるというのだ。

『秘史』は、朝鮮総督府の治安官僚をつとめた坪江汕二が戦後に書いた非常に史料的価値の高い本である。その本の中に、朝鮮人抗日組織が関東大震災前後の時期に摂政宮襲撃に向けて準備していたと書いてあるという。これは本当だろうか。

実は『秘史』にはそんなことは全く書いていない。関東大震災に言及しているのは一箇所だけだ。「関東大震災の報道は、とくにかれら(満州の朝鮮人抗日組織各派)に誇大に伝えられ、これを契機として日本の国力の後退を夢想し、運動戦線の統一と強化をはかろうとする気運が強まっていった」という一文ですべてなのである。その前後にも、摂政宮襲撃だの逃走ルートだのという話は全く出てこない。


出典が明記されていても、その内容が本当に原典に書いてあるとは限らないというのでは、一体、何を信用して本を読み進めればいいのか。ルール違反もここまで来ると、これをそのまま販売し続ける版元の見識の問題である。

そもそも―「そもそも」すぎて力が抜けてしまうが―そもそも、ペンネームが変わるというのではなく、著者そのものが交代するなどという話も、前代未聞である。しかも、後書きで「取材・執筆を共同で行ってきた関係から」著者名義を変えた―などというほとんど意味をなさない言い訳がなされているだけで、著者交代について何の説明もないのだ。『なかった』のアマゾンレビューで、評論家の小谷野敦氏が書いている。「著者の名義変更なんて、疑わしい本ですよとか、実は代作でしたと言っているようなものだ」。

ちなみにこの本には、トリックというより単なる稚拙な誤りもたくさんある。東京・音羽町を舞台にしたエッセイを横浜の話と思い込んで(『なかった』p.57)繰り返し言及するとか、「50本の巻きタバコが入る箱くらいの大きさの爆弾」という意味の原文を「爆弾50個」と読む(同p.343)とか、中国の安東県(現在の丹東市)を韓国・慶尚北道の安東市と誤解する(同上)とか、中国に存在する朝鮮人抗日組織が震災後の9月19日に朝鮮でのテロの準備を始めたという特高情報を、その3週間前の9月1日に彼らが東京でテロを「行った」証拠として掲げる(同p.344)とか、きりがないほどだ。

当ブログは、サイト「『朝鮮人虐殺はなかった』はなぜデタラメか」の一部です。朝鮮人虐殺、あるいは虐殺否定論批判をもっとくわしく知りたい方は、そちらもご覧ください。

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その役割は「犯罪的」としかいいようがない


 

2015年1月27日火曜日

まとめ

                                                   

その役割は「犯罪的」としかいいようがない


以上に見てきたように、この本はいくつかのトリックを組み合わせただけのものである。きちんと検証してみれば、誠実に受け止めるべき発見はその中にひとつもないという類の本である。

しかし、こんな本であっても、悪しき政治的な役割は十分に果たしてきた。ネット上では、工藤夫妻にならって震災直後の「朝鮮人暴動」記事の画像をアップしては「朝鮮人が暴れた証拠だ」と叫ぶネトウヨがあふれ、事情を知らない人を迷わせている。旧版―工藤美代子名義の『関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実』を出した産経新聞は、これを活用して震災時の虐殺についての歴史教育を攻撃するキャンペーンを張り、東京や横浜の教育委員会は実際にそれに屈してきた。

関東大震災「朝鮮人虐殺」はなかった!(WAC・2014)


負の歴史もまた、私たちの社会の大事な財産である。目先の気持ちよささえ追求できれば何でもいいという考えで歴史的事実をねじまげ、オカルトレベルの陰謀史観に置き換える行為ほど、日本の歴史を軽んずるものはない。日本の歴史を安っぽい漫画レベルに塗り替える行為は、漫画のような安っぽい政治と社会をつくることにしか貢献しない。その先にあるのは亡国である。

ましてや、工藤夫妻のマジックショーの目的は、被害者を加害者に仕立て、犠牲者の数を不正な手段でディスカウントしようとするところにあり、とうてい許しがたい。産経新聞がユダヤ陰謀論を主張する本の広告を載せたことについて謝罪したそうだが、一方でなぜこのような本を出版して恥じないのか。

この文章では、長くなるので、あまりに細かい個別の検証には立ち入らなかった。『なかった』の詳細な検証結果については、当サイトで後日、順に発表する予定である。もっと詳しいことを知りたいというマニアックな方は、そちらも読んでみてほしい。


当ブログは、サイト「『朝鮮人虐殺はなかった』はなぜデタラメか」の一部です。朝鮮人虐殺、あるいは虐殺否定論批判をもっとくわしく知りたい方は、そちらもご覧ください

 

2015年1月25日日曜日

「朝鮮人暴動」の証拠として出てくる史料一覧


工藤夫妻(工藤美代子/加藤康男)『関東大震災「朝鮮人虐殺」はなかった』(WAC・2014)
「朝鮮人暴動」の証拠として出てくる史料一覧
↑クリックで拡大します。


工藤夫妻が『なかった』で引用している史料のうち、「朝鮮人暴動(放火など)の証拠」という文脈で提起されている16本と、「証拠」史料ではないが、論旨を酷くねじまげた引用を行っている1本(特)を、リスト化しました。

上記史料(16本+1本)についてのくわしい検証は、「マニアック編」で後日、個別に行う予定です。